鳥と、青年と、前世の話。

先日、とあるお店に行きました。

そこは、かなりのお客さんの出入りがあるところです。入口は、まずは建物のドアがあって、風除室があって、さらに自動ドアがあって、店舗に入っていくようになっています。

一番外にある建物のドアは、開けっ放しになっていました。そのため、風除室の場所に、小さい鳥が入ってきてしまったようでした。自動ドアの前にいるのを見つけました。スズメよりも二回りくらい小さいサイズで、赤ちゃんの鳥かもしれません。

その鳥が目にとまったとき、誰かが、鳥の置物とかおもちゃを落としていったのかと思いました。その場から、まったく動かないからです。

でも、じぃーっと見ると、ごくたまに少しだけ動いたりするので、生きている鳥だと分かりました。

幻想的な景色に白い鳥

外へつながるドアは開け放してあるので、しばらくすれば、偶然に出口をみつけて外に出ていくかな?と思っていましたが、その鳥は、ぜんぜん動きません。置物のようにおとなしく動きません。

私以外に、鳥に気付いている人はいないようです。なにしろ、ぜんぜん動きませんし・・・、それに、鳥がとまっているところは、入り口自動ドア前にある、玄関用マットの上で、なんと、マットの色と鳥の色がそっくりで、完全に保護色になってしまっています。

そして、店を出入りするお客さん達は、自動ドアですから、ドアの前で立ち止まることもなく、視点を下方に向けることなく、ときにスマホなんかを眺めながら出ていくので、鳥が踏まれるのではないかと、ひやひやしながら見ていました。

でも、きっと、そのうち出ていくだろう、何しろ入ってくることが出来たのだから出ていくことだって出来るはず。

ちょっと時間がたてば、きっと飛んで自力で出ていくだろうし、または誰かが気付いて鳥を逃がしてくれるかもと、私はそう思って、・・・というか、自分に言い聞かせて、店内を一周して時間をつぶしました。

そして、また玄関のほうに戻ると、・・・まだ、そのまま鳥は同じ場所にいます。そして、相変わらず、誰も気付かずに今にも踏まれそうなのです・・・。

ああもう、なんか、私の気持ちが限界で(笑)。

あの鳥を外に出すしかない、と思いました。

しかし、そのときの私の服装や持ち物の状態で、床にいる鳥を手で捕まえるのは、ちょっと厳しいな、出来なくはないけれど・・・、と、

いろいろ考え「別に、私がやることはないか。お店の人に頼めばいい。お店のことなんだし」と閃いたので、近くにいた若い男性のスタッフさんに説明してお願いしました。

彼は、こころよく了解してくれて「何か、手袋とか探してきます」と、その場を一時離れました。私は、心からほっとしました。

彼がその場を去った直後、あれほどに、まったく動かなかった鳥が、飛んで、風除室内の少しだけ離れた場所に位置を移動しました。腰の高さくらいの、手すりのようなところに、こちら側に背を向けた形で止まったのです。

「あ、なんだよ、その位置にいてくれるなら、私でも構えて外に出せたのに。わざわざ、彼に頼むこともなかったのに」と思いました。彼の仕事を中断させて、鳥を捕まえてとお願いしたのが、ちょっと申し訳ないような気持ちになっていたからです。

すぐに彼が戻ってきて・・・、とても捕まえやすい位置にいる(笑)鳥を、いとも簡単に両手でつかまえて、そのまま外に出ました。

そして「若い青年が両手でふわーっと空にむかって鳥を放つ」という、まるで映画にでもありそうな素敵なシーンを私は店内から見ていました。

そのとき、ふと、二重写しのようになって、私の霊的な視野に、よく似た別の情景が流れました。彼と同じように、鳥を逃がしてあげる青年の姿です。

ほんの一瞬だったので、そして、あまりそちらに意識を向けていなかったので、はっきりとは分かりませんが、おそらく日本を含んだアジアのどこかの国の若い青年の姿でした。

彼は、こちらに戻ってきて「思ったより簡単に捕まえられて、びっくりしました」と笑って、私に「ありがとうございます」と言いました。

そのとき、一緒に、彼の後の方(守護霊)が、私に、ありがとうございます、と言ったような気がしました。

彼に二重写しになって見えた様子は、彼の前世だったろうと思いました。前世の彼も、同じように鳥を逃がしてあげた場面があったのだろうな、と。

店内で思ったのは、そのことだけです。そして買い物を済ませて、家に向かって歩いている途中にそのことを改めて考えていました。

鳥を放って助けてあげる、という行為は、タイなどの東南アジアの仏教国で行われている、わりと有名なものですよね。私もそれは分かっていたので、映画のようなシーンだなと思って見ていました。

慈悲の心をもって、捕らえられている鳥を、放ってあげるという善行を積む、というものだそうです。その行為が自分の徳となって返ってくるとか、そういう意味があるのでしょう。

彼の前世と、彼の今世で、同じような行為をしているという巡り合わせは不思議ですが、しかし、意味のないことは起こらないので、おそらく「今の彼にとって、そういう形で鳥を放って善行を積むことが、必要があること」だったのではないかと、私はそう思いました。その行為が、今の彼にとって得るものがあるのだろうなと。

ある意味、前世での彼の積んだ徳が、今世に返ってきて、今世での彼が必要なときに、同じような状況が「与えられた」のではないかと、そう思いました。

「そうなるように、なっていた」から、鳥が、わざわざ?あの場所にやってきて・・・、私が発見したときは、(私に捕まえられないように)捕まえづらい位置にいて、

彼がつかまえようとしたら、背を向けて止まり掴みやすい位置へ移動して、そして、いとも簡単につかまって空に飛び立っていく・・・、そんな「ドラマの脚本」があったかのような出来事だったと思います。

私は、その「ドラマ」において、完全なる脇役だったわけですが(笑)、その役を、滞りなく務めていただいて、ありがとうございます的なことを、彼の後の人から言っていただけたのかもしれないです。

家に戻ってきて、調べてみますと、このような風習は日本でも古くから行われているそうです。放生会(ほうじょうえ)といって、殺生を戒める意味合いの行事として、放し鰻、放し鳥、放し亀が、風習として定着していたようです。

タイの風習は知っていましたが、日本でもそういうことがあったのは、私は全く知りませんでした。

鳥を捕まえてくれた彼のその姿は、私個人の知識からは、「まるでタイの風習のようだ」とは思ったけれども、二重写しで一瞬見えた様子は、タイのような雰囲気ではなかったような・・・、日本のような・・・?と思っていたのですが、このような風習が日本でもあったということならば、私に見えた前世は、日本人の様子だったのかもしれません。

このように、脚本が「なっていた」ならば、仮に私が鳥を捕まえようとしても、私には、掴ませてくれなかったのでしょうか。そして、結局は彼に頼むようになっていたのでしょうか。

おそらく、このような仮定のたら、れば、は、考えても答えはでないし、考える必要もないことかもしれません。事実、私は鳥を自力でつかまえようとしなかったのだし、自力で捕まえないことを「私自身が選んで」いたのだし、そして、実際に鳥を捕まえて空に放ったのは彼なのですから、複雑に考えることなく、シンプルに受けとめていけばいいのでしょうね。

このように、日常で、今世と前世は、ある意味重なり合っていたり、現実と霊的な要素も重なり合っていて、出来事が起こり、そこから学び合うという仕組みが存在していることを改めて考えさせられた出来事でした。

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