察知するセンスが高い人は、深読みの「しすぎ」に注意しましょう。

人間関係で、相手の思いや意向は「きっと、こうだろうな」というように推察しながら自分の言動をおこしていくことは、よい関係をつくるために「ある程度は」大切なことだと思います。

大人になったら、何でもあからさまには言わなくなるもので、そこを「読んで」合わせたり、次の言動を考えたりしていくことは、大人の社会においては必要になってくるものですよね。

しかしどんな素晴らしいことや必要なことでも、適度であることが大事で、過度になったらうまくいかなくなります。

過ぎたるは猶及ばざるが如しというやつです。

不安があると、深読みしてしまう。

深読みしたくなるのは、「言葉とは別の何かがあって、それに気づかないと自分の立場がまずくなるのではないか」とか、または、「相手が皮肉で言っていることを、まともに受け取ったら低くみられるのでは」というような気持ちになるからです。

結局はどれも「不安だから」発生する気持ちなんですよね。

察知するセンスが高い人ほど、心配になってしまう。

相手の言いたい本音や、隠された裏側にあることって、なんとなく察知して「わかってしまう」ことがあるものです。何もわからない人は、そもそもそういうことを気にしません。ときどきはわかってしまうからこそ、「また今回も・・・?」と気になるのですから。

わかってしまう感性があるゆえに、きっと今回もそうじゃないのか(以前にそうだったように)。裏に何かあるのではないかと、常に心配になってしまい、後でがっかりしないように、前もって「少し、悪いほうに想定しておこう」という防御をしたくなる人もいます。

または、わかるまで考えて、なんとかして本音をわかろうと「してしまい」ます。ああでもない、こうでもないと、答えがわかるはずもないことを考え続けてしまいます。考え続けると、答えがわかるような気がしてしまうのか、または、わかろうとすることを止めるのも怖い、という気持ちかもしれません。

しかし、「わからないときは、どれだけ考えてもわからない」のです。少なくともその時点では。ときどき、ある条件下でわかることもあるとしても、同じことがいつも誰に対してもできるわけではないでしょうから、「わからないことを、考えても疲れるだけ」と言いきかせて、そこでもう切り換えることです。

本音ではないが、特に含みはない、という場合もある。

気になるのは、「隠された本音が別にあるのか?それとも、そういうものは無いのか?」という点だと思いますが、しかし、人の気持ちというのは、そんなにはっきり○×でわけられるようなものばかりではありません。

上辺だけの発言をする人がいるとして、「本音を言わないように、あえてそうしている」人もいれば、「意図的に皮肉をいう、意地悪さがある」人もいれば、「上辺の発言をすることが習慣になっているだけで、特に含みはない」人もいます。

本音じゃないけれど、特に意味とかはない発言という場合もあるのです。それを気にしすぎると、自分が「意味を持ち込んで」しまって、「こじつけ」や「曲解」になることもあります。

・・・というような、複雑ないろいろのパターンを想定しなければならない、「その時点でわからないことへの、深読み」って、疲れるだけではないでしょうか。大いなる時間の無駄であり、それをやめて不利益になることは何もありません。疲れないし時間も無駄にしないという利益だけがあります笑。

無難な返答を、あらかじめ準備しておけばいい。

相手がどう思っているのかという裏側が気になる人は、「相手に別の意図があるのに、自分が的外れの返答や対応をしてしまったら低くみられる」という不安があるものです。

しかし、先にも書いたとおり、いくら察知するセンスがあっても、毎回わかるわけではないし、相手に隠された本音が存在するとも限らず、実際のところはわかりませんから、

本音を把握しようとするよりも、「本音なのか、そうでないのか、判断に迷うような言い方をされた場合の、無難な自分の返答」を、前もって用意しておけばいいです。

用意した無難な言い方を、実際に使う場面はないとしても、「もしも、言われたら、こうすればいい」というものが用意されている安心感で、楽になれると思います。

そうすると、余裕があるので、相手のことも、よく見えるようになることも多いです。

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