必要以上に、自己犠牲的な立場に自分をおいて、苦労を抱え込んでしまう方がいます。
多くの場合、子どもの頃からのびのびと過ごすことができずに、親や周囲の大人に気を遣って過ごさなければならない状況を経験しています。
自分が我慢すると周囲の大人が喜ぶ、または自分の行動が褒められたり認められたりする、経験を重ねると、「犠牲になれば自分の存在が認めてもらえる」という認識が作られてしまいます。
そうして、大人になってもなお、犠牲的にふるまうことで、相手からの評価を得ようとしてしまうことがあります。
本人は無意識で、意図的にそうしているわけではないのだけれども、犠牲的な役割をあえてとることで「相手に一点、貸しを作っておく」という構図を作ってしまうのです。
自己評価が低く、そして他人を心から信用していなくて、何かをしない限り好意や評価は得られないと思ってしまっているので、対等の立場ではなくアドバンテージがある状態がほしくなります。
そうしないと自分が大事にされるはずがないとか、そうすることでやっと相手とつり合う(しなければ自分が下である)と、頑張らなければ、立場や評価や、人間関係そのものを失ってしまうだろうという恐れにとらわれて、その状態を改善したいと思っても抜け出すことが難しくなります。
けれど普通に考えて、自分が犠牲にならないと継続できない関係は・・・、やはり不健全だと思います。
ときどき負担を掛けられるたり、何かをしてあげなければならないことが発生するのと、常に自分だけが一方的に犠牲になっていないといけない関係は、違いますよね。
これは、「自分が、そうしている」んだと、自覚がないと改善できません。
なんとなくは自覚していていも、自分がこれまで認められてきた「成功パターン」でもあるので、なかなかそこから抜け出せません。こう幾重にも絡んでいる構図は根深いです。
自分が犠牲になっていられるだけの行動力や思いやりや配慮があるなら、本当は、別の方法でも、相応の評価を得ることはできるはずなのだけれども、人は皆、自分のこれまでの「評価されてきた方法」を手放したくないので、難しいんですよね・・・。
該当する人はきっと、この記事を読み進めるのもちょっと苦しいのではないかな、と思います。私も、読む方の心情を想像すると・・・、途中で書くのをやめようと何度も思いましたが、しかし今このことが必要なタイミングの方いるかもしれないと、書き上げました。
犠牲的でないと認められない、なんてことはありません。
別の方法でも、信頼に繋がる関係を作ることはできます。
時間は掛かるかもしれないけれど、そういう関係を作らせてくれる相手と、実り多き関係を作り上げていくことも大切な学びだと思います。
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