この世には、「時間というしくみ」があるので、ある程度の時間が経過しないと、結果があらわれません。
この世には、自分以外の「他人という存在」がたくさんいて、それぞれの意向や都合がありますから、すべてが自分の思い通りにはなりません。
この世では、いろいろなものごとに「物質」が大きく関わるので、「思い」「理想」という形をもたないものをあらわすのは大変です。
この世で生きる人々は皆、そうした「難しい条件において、いかに過ごしていくか」という経験をしています。
ですから、やりたいことの時間がなかなかとれないことも、あっという間に時間が過ぎてしまうことも、取り組んだことが実るまでに時間が掛かることも、「この世とはそういうところ」と受けとめていくことです。
他人の存在が、ときに面倒で負担になっても、自分だけのほうがずっと早くて楽であっても、相手が自分の望む動きをしてくれなくても、「この世とは、そういうところ」です。
なぜそうした、難しい条件下で過ごしているか。
それは、学ぶため、気づくためです。
何の制限もないところでは、比較という感覚もうまれず、なぜそうなるのかという思考もなされず、ではどうしたらうまくいくだろうと工夫する意欲もわかず、新たなものを創造することも、新たな気づきを得ることもできません。
時間という変化のしくみがあり、他人という自分と違う個性をもつ存在がいて、物質という固有の形があるものによって、制限があるからこそ、新鮮な学びを常に、得ることができるようになっています。
時間があり、他人がいて、物質がある。
この世という場所の、あらゆる制限の中で、私たちは「生きる」という学びを重ねています。
コメント
リカコ様
今日のこのメッセージは、とくに勉強になりました。
「他人の存在が、ときに面倒で負担になっても、自分だけのほうがずっと早くて楽であっても、相手が自分の望む動きをしてくれなくても、「この世とは、そういうところ」です」
様々な出来事と出会い、そして学ぶことで、
自分が気づかなくてはいけない「気づき」に、発見できているのかわかりませんが
この言葉にすごく共感しました。
これから辛いことでも、もっと前向きになって
新たな「気づき」を得るようにしたいと思います。
比較という感覚は、とても大きな気づきをあたえてくれます。
違うからこそ気づく、同じであれば気づきにくい、という
このしくみそのものに気づくと、
違うという事実や、違いによってうまれる不調和に対する
受け止め方が変わっていきますね!