愛には、いろんな種類があって、たとえば、移り変わりのある「恋愛感情」も含まれますが、基本的は、愛とは「本質的なもの」です。(恋愛感情は、そのうちのごく一部です)。
愛とは、たましいの根源にある要素であって、変化のある「状態」ではありません。
恐れは、この世という「比較(相対)の世界」において、愛がある以上はどうしてもついてまわる、「とても本質に近い位置にある、感情」、といえるでしょう。
恐れと愛は、実はとても近い場所に位置している、裏表のようなものでもあるのです。
愛にいろんな種類があるように、恐れにもいろんな種類があります。恐れの感情は、いつかは終わる一過性のものも多いですが、しかし、そうした変化を伴わない、本質に根ざした恐れ、というものもあるのです。
意味なく不安になり、意味なく恐れが出てくることがありますが、それが、「感情的な要素が強い」ものであれば、現状や自分を分析したり工夫をしたりして立て直すことは可能です。感情は、いつかは終わるものだからです。
けれど、それが「本質的なもの」である場合は、自分を見つめたり工夫したりという働き掛けでは、解消することは難しいのです。なぜなら、本質とは、移り変わりのある状態とは違っていて、終わりがない永続的なものだからです。
状態としての(感情的な)恐れは、解消していけますので、努力をしていくことは有意義です。そのほうが、自分の人生が楽になります。
けれども、本質的な恐れに対して、たとえば感情を解消する際のような、分析などの取り組みをしても・・・自己否定感や無力感に繋がり、むしろ事態を混乱させてしまうこともあるかもしれません。
愛と恐れは、この世においては表裏一体とも言えます。
この世という場所は、「ある」と「ない」が混在する比較の世界なので、あるものに対して「失う恐れ」がセットになって存在していて、恐れがあるからこそ、私たちは(比較することで)愛を認識できる、とも言えるんですね。
ですから、「恐れ」の解消と一口にいってもいろんな段階があり、根源的な要素に近くなればなるほど難しくなります。
一過性の感情のようにはいかない本質的な恐れを、私たちは誰もが抱えながら、この人生を学んでいます。
恐れに支配される生き方をする必要はないけれど、しかし、恐れを完全に除くことはできない、ということも理解しておくことが大事だと思います。
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