霊の姿を視覚にとらえることができたり(霊視)、霊の声を聞くことができたり(霊聴)する人でも、自分の好きなときに好きなように、「これを見よう」「れを知ろう」と、自由自在に発揮できるわけではありません。
「そうする必要があるとき」に、どちらかといえば、霊の側からの主導によってセンスが発揮「される」ものです。発揮「する」ことは、好きなようには選べないです。
なので、そうしたセンスを持っているとしても、のべつまくなしに霊を見ているとは限りませんし、見たいときに見えるとも限りません。
同様に、見たくないときに見えてしまうことも(そうなる必然性があるとか、そうなる条件が揃えば)あり得ます。
「どちらかといえば」という但し書きがつくのは、受け身的に発揮されることが「多い」のであり、受け身的に「しか」働かないわけではない、からですね。
そうしたコントロールは、その人の霊性の発達などによって「幾らか」はできるようになります。
けれど、霊的なセンスそのものも、センスの発揮も「自分だけのもの」ではなく、「霊的な世界の働きかけ」の度合いが大きいですから、 自分の都合で勝手気ままに発揮したりはできない仕組みになっています。
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