霊感が強い人は、ものごとを深くとらえて悲観的になりやすい

霊感が強い人は、感性の幅が広いので、ものごとを必要以上に深くとらえてしまうところがあります。たとえば表面的な言動の裏側のさらに裏側とか、問題となっていることの原因のさらに原因は何だろうとか、そういうことが気になってしまいます。

これは感性の幅広さが、自分という器をはみだして、より外側までも広がってしまうためです(この広がりが霊的な領域にまでいくことで、霊的なものをとらえることになりそれが霊感と呼ばれます)。

純粋に楽しさとか喜びを感じることに、罪悪感のようなものがでてくることも多いです。そうなるために何がどうなっているかと、複雑に考えなくても大丈夫なことでも、一部分だけを平面的にとらえることができません。

つねに深いところ、裏側、原因などが意識されてしまうためか、霊感が強い人の多くは心の中に「かなしみ」のような感覚を持っている人が多い気がします。根っからの「陽キャ」な人はあまりいないような…。

表面的には明るいものをあらわしていても、深いところにはそれとは別の思いがあって、なかなかポジティブになりきれないところがあるかなあと。

それが良いとか悪いとかではなく。

そういう人が多い気がします。

感性の幅広さと、根底にある「かなしみ」が作用してしまって、ちょっとのできごとを大きく複雑にとらえて人生を悲観したり、自分への諦めや否定になったり、または逆に向かって外側にある人やものごとへの怒りが出たりしやすいので、

そういう方向に傾きすぎないように、人生にも自分自身にも、明るいものをあらわしていく意識をもつのがいいと思います。霊感が強い人は、本人比でちょっと楽観的であるくらいが望ましいバランスなのかもしれませんね。

コメント

  1. mulichan より:

    この記事に書かれていることが、正直自分自身に起きていると確信がなく、コメントをするか迷ったのですが、逆にずっと気になっているということを元に書いてみたいと思いました。

    私は物事を考える時に、奥の奥を同時に感じようとする、見ようとする癖があるかなと・・・感じています。多面的に見てみたいという思いが強いのか・・。いけないとは思わないのですが、そのせいで必要以上に物事をこねくり回してしまっている時もあるかもしれません。もうちょっとシンプルでいいのではないかと(なかなか出来ないということもありますが)

    「悲しみ」というワードですが、今でも忘れもしないのですが、5,6歳の時に自分が奏でていたエレクトーンの音色がとても美しくて、その美しさに感動しているのに、同時になぜか「悲しい」「やるせない」という感情が生まれ自分で演奏しながら大泣きしたしてしまったことを鮮明に覚えています。なぜ美しいのに悲しいのか、6歳の自分には美しいに悲しいがくっついてくることが理解できず、でも涙が出て止まらない不思議な体験をしました。この記事でおっしゃっている「悲しみ」とは別のことなのかもしれませんが、この記事を読むとこのことが強烈に思い出されたのでコメントさせていただきました。

    • リカコ リカコ より:

      mulichanさま
      ものごとを多方面から深くとらえようとする姿勢は、基本的には望ましいことだと思います。しかしすべてにそうした意識でいくと時間がいくらあってもたりなくなるので、時間をかけてでも深く考える価値があることと、表面だけの認識でも問題はないことをわけて、後者にはシンプルにとらえるという使い分けをするのがよさそうです。

      5、6歳頃の経験については、音というのは「エネルギーの振動」なので、自分の演奏による振動が、自分の「深いところにあった悲しみようなエネルギー」を揺り動かして表面まで浮上してきた…ということも考えられますよね。その経験自体も、そのことを今も覚えていることも「ものごとを深くとらえる」感性に優れている方特有のとらえ方だなあと感じます。きっとこのこと意外にも、似たような経験はたくさんしていらっしゃるのでしょうね。