肉体の年齢とは別の、たましいの年齢がある。

人の成熟度というのは、肉体の年齢だけでは計れず、たましいの年齢、つまり前世も含めてどのくらい「経験値」を持っているか、ということも関連しています。

そのため、この世の肉体の年齢と比較して、とても大人びたタイプの人もいれば、逆に、幼いタイプの人もいて「いろいろな人がいる」ことになります。

スピリチュアルな観点からすれば、そうして、誰もが肉体の年齢と比例した、一律の成熟度ではないことを踏まえた解釈があるとしても、

しかし、「この世とは、物質の世界」なので、さまざまな場面で「肉体の年齢」に見合った社会常識や成熟度を求められるでしょうし、相手にも求めるものだと思います。

もう、大人なのだから、このくらい出来て当然、このくらいはしてくださいという期待や責任が「ある」とされる場面で、「いやいや、私は、たましいがそれほど大人ではないので、出来ません」などと、まさか言えないでしょうし、

スピリチュアルな観点ではあり得る解釈も、この世の物質界では「通らない、言い分」とされてしまいます。

そのような状況に置かれることも、学びのひとつですね。(実際の成熟度は、年齢では計れないけれども、それでもなお)年齢の区分けである程度の線を引いて、それに見合った解釈なり振る舞いなりを求められることが、この世という場所での学びです。

一部分だけをとらえると、たましいの経験値が少ない人ほど、この世での負荷が掛かり、経験値が大きい人は、同じ期待に対して比較的楽にそれをクリアできるのではないか、経験値が少ない人のほうが苦しい人生だと思うかもしれませんが、全体を考えてみればそんなことはありません。

現実的な事柄にたとえるなら、収入の多い人ほど累進課税でたくさんの税金を負担するのと同じで、経験値が大きい人は、それにみあった学びを、同様か、もしくはそれ以上に別の形で与えられています。

たとえば、経験値の少ない人が、仕事がうまくできなくて怒られたりするのは、成熟度の面からいえば不公平であり苦しさもあるかもしれません。しかし、その仕事をフォローするのは経験値の大きい人がすることになる等、それなりに釣り合いはとられるものです。

また、経験値が大きくて器用な人は、どんなことも(苦労して、頑張ってやっているのに)出来て当然と思われたり、いろんな工夫を凝らして効率化をはかり、全体を助けているのに、他の人がそこまで気付かないので評価されないこともありますし、そういう人なりの苦労というのは、また違った種類のものがあるわけです。

たましいの経験値が多い人も、まだそれほどの経験を積んでいない人も、この世で、「それぞれの器に見合った学びをするようになっている」という意味では、誰もが「同じ」ということになります。

 

コメント