他人について知ることが難しいのは、自分とは、備わっている性質が違うからです。
自分にまったくないものは、わかるという内的な感覚が、呼び起こされません。
自分の中にも同じようなものがあるからこそ、それが響きあって「わかる」という感覚になることができます。
他人について、たくさんのことがわかっているようでも、実際にわかっているのは、自分にも同様のものがある部分のみ、相手の一部分だけとなります。
相手について知るということは、「自分の感性の器」で、相手の一部分を、すくいあげることです。
水槽くらいの大きさから、バケツで一杯分すくったとして、わかるのはバケツに入った部分のみとなります。
自分の感性という、バケツのサイズが大きい人ほど、相手についてたくさんのことがわかりますが、それでも、全部にはなりません。
「自分という水槽と、自分がもっているバケツ」は、性質が揃っています。
「相手という水槽と、相手がもっているバケツ」も同様です。
しかし、「相手の水槽から、自分がもっているバケツで、自分のほうへとすくいとる」のは・・・、それぞれの性質の違いがあるため、どれほどに大きいサイズのバケツでも、合わない部分はすくいとれません。
自分と相手との人間関係における、「わかりあえる」こととは、
自分という水槽があって、相手という水槽があって、
お互いの間に、「バケツ一杯分の、わかりあえることがある」、というくらいの
一部分であるというイメージが、ちょうどよいのではと思うのです。
そうすれば、何でもわかってくれているはずと期待しすぎず、何でもわかったつもりになりすぎず、適切な度合いを保っていけるように思います(^_^)。
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