スピリチュアルな知識をもって、自分の毎日のようすを眺めてみると、結構いろいろなことに、スピリチュアルな繋がりや、現象のあらわれがあるのだと気づかされるものです。
無意識でいるか、意識的になるかで、差がでてくるのは面白いものですね。
さらに意識的になってみると、スピリチュアルな現象が「頻繁に起こる時期」と「ぱったりと何も起こらない時期」があることに気づく人もいるでしょう。
この「ぱったりと何も起こらない時期」を経験することは、学びの初期をすぎて、さらに進んでいることのあらわれです。
頻繁に起こることも、ぱったり起こらなくなることも、意味のある現象です。
あえて「気づかされる」時期があります。
とても不思議な、スピリチュアルな力が働いているとしか思えないことが連続して起こり、自分でもそのことに気づいているなら、
それは「気づくような現象ばかりが起こっている」「起こっていることを意識させられている」のであり、
霊界からの働きかけがあると考えてよいでしょう。
こういう状況は、スピリチュアルに関心が出てきて、知識もついてきて、それらを結びつけて解釈することができるようになった、比較的「初期の頃」にみられます。
現象と知識を結びつけて解釈ができるようになり、その裏付けのように、次々と不思議な現象が起こると、とても面白くなります。
この時期が一番、スピリチュアルに興味と関心が深くなって、ワクワクできる時期もであるでしょうね。もっと知りたい、もっと理解したいと、意欲がでてきます。
この面白さが、これからずっと続く・・・ような気がしてしまうところですが、しかしそうはならず、時間とともに、目立った現象に遭遇しなくなる時期がやってきます。
現象がおさまる時期は、自分が「行動する」時期。
ぱったりと現象が止まってしまうと、なんだかものたりない気持ちになり、そしてちょっと不安にもなってきます。
「なぜ、前のように現象が起こらないのだろう」
「これまではもっと、いろいろなことが起こっていたのに」
「自分に何かがたりないから、こうなってしまったのか?」
と、複雑に考えてしまうかもしれませんが、それは「気づくための時期を過ぎて、次のステップに移行している」という理由です。
初期の頃は、気づくために「たくさん起こる」状態でした。気づいて、理解が深まったならば、いつまでもそうしたあらわれが続くことにはならず、
逆に「ぱったり何も起こらなく」なり、自分のほうから行動を起こし、行動の中に、気づいた学びをあらわしていくことをうながされます。
つまり、行動のさまたげとならないように、現象のあらわれが減っていくということです。
行動したことが、現実的な成果となっていく。
スピリチュアルな現象が「いかにもわかりやすい形で」集まるのは、一時期となることが多く、いつまでも同じ頻度で続くことにはなりません。
それは、自分に何かがたりないから・・・ではなく、むしろ逆に、気づいて理解が深まり、自分が成長したことのあらわれです。
学校の勉強と同じで、いつまでも、ひらがなの教科書で、一桁の計算ばかりを続けても成長しませんし、それでは飽きてしまいますね。
スピリチュアルなわかりやすい現象も、いつまでも与えられ続けてしまっては、それ以上に成長ができません。新鮮なのは最初だけで、同じような現象ばかりが続けば、いずれ飽きて関心も減ってしまうでしょう。
そうなる前に「いかにもなわかりやすい現象」はおさまっていき、「自分の頭で深く考え、行動をすること」をうながされます。
そして、行動がたくさん重ねられていくと、
自分が行動したことが「種」となって、今度は、現実的な事柄の中に、成果があられるという形で「花が咲く」ようになります。
たとえば人間関係が広がったり、
仕事や勉強の結果が、とてもよいものとなったり、
欲しいものが得られたり、評価が高くなったりします。
このように、行動という種をまき、現実の成果をえていくことを、経験から学んでいく時期は「現実に意識が向くようにさせられる」ので、それまでのようなスピリチュアルな現象はおさまっていくということです。
ここは、現実を生きるという学びの人生において大事なところですから。
そうなると今度は、行動をして現実的な成果を出していくことのほうが、面白くなって、そちらにばかり意識が向かってしまうケースもあり、
ある意味「現実的になりすぎる」「物質的価値観になりすぎる」ときにはまた、一周して戻るかのように、スピリチュアルな現象があらわれていくようになり、二周目のターンに入っていくようになりますね、笑。
このくり返しも、不思議で面白いです。
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