「教えてもらえること」は、ありがたいことです。年齢を重ねるほどに、そうした機会が減っていきます。
たとえば、子どもの頃に、親のしつけがとても厳しかったとか、新入社員の頃に、上司が仕事の姿勢や礼儀にうるさかったという経験を持つ人は、その経験は(勿論、いいことばかりではなかっただろうことは承知の上で)とても価値あることを教わった「よい経験」だと受けとめましょう。
その厳しさには「役立つ良識」が含まれている。
多少の厳しさがあっても、常識や良識を教えてくれる目上の人は、貴重でありがたい存在であり、そういう人と関わって身についたことは、この先の人生でずっと役立つ、何にも変えられない財産となります。
仮に、その指摘した側の相手が、心からの優しさによる助言でなかったとしても、結果として自分に身についたことがあるなら、それは「よかった経験」ではないでしょうか。
事実として、相手の中にどのくらいの思いやりや親切心があったかいう点は、そんなに重要ではないと思います。
大事なことは、そうした学びの機会に遭遇することができ、「自分がそのことをどう受けとめて、何を学んだか」という点です。
そうした見方をしてみると、これまでの経験の中に、さまざまに「教わったこと」が見つかってきて、本当にありがたいと、感謝の思いで心が満ちていくものです。
順番にその役割を担う。
人はそうして順番に、目上の人から目下の人へ、良識というバトンを手渡していくように、役割をはたしていくもののようです。
この世という場所はそういうふうになっている、かつての経験をいかして、かつての自分(と同じ立場の誰か)を助けるかのように、やるべきことをやっていくようになっていると思います。
若いころにはわからなかったことが、年齢を重ねてわかるようになり、かつての先輩の気持ちや立場や思いが理解できるようになったら、「教える場面」が自然とめぐってきて、厳しさを含めて良識を伝えていくのでしょう。
過去の自分が、そうしてもらったように。
機会を与えられ、役割に気づき、自分がしてもらったことを、次の人にしてあげて手渡していく経験をすると、自分に手渡してくれた人の思いが、想像ができて、それもまた感慨深いものです。
「きっと、あのときの上司は、こんな気持ちだったのだろうな」と。
そうした、後を追いかけるような気づきも、学びなのでしょう。
私の守護霊がかつてこう言いました。「年齢を重ねてみて、はじめてわかることがある。若いころには見えぬ景色が、確かにあるのだ」と。
年々、その言葉の意味を、深く、実感しています。
コメント
いとこの親に比べて、私の親はしっかりしておらず、守ってもらえるどころか、親から自分を守るのに必死で生きてきました。
なんでこんな親の元に!?と運命を恨んだものですが、そのおかげで自立心や社会を上手く生きる手段を身につけてました。
反対にいとこ達はいつまでたっても親に依存して、自立どころか依存度は増すばかりで、親子共々共倒れになりそうないとこ達もいます。
強くなるしかなかった成長期は辛かったけど、そういう環境だったからこそ、まだ心の痛みは残ってはいますが、厳しい環境に感謝するようになって来ました。
過去の経験について、
当時の時点で認識や理解をしていたことと
今の観点で再び、そのことをどう受けとめているかという、今の自分の認識や理解と、
その違いからも、気づかされるものがありますよね。
しかし、そうした「理解できること」と「感情」はまた別のものなので、
理解が進むとしても、感情は残ってしまうのは、
ある意味、当然といえば当然であるようにも思います。