よりふさわしい道へ、方向転換をさせられることがあります。

私たちが、この世での人生という学びの経験を、見守っている「守護霊」という存在がいます。

この世での経験は、私たち自身に主導権があるので、守護霊の立ち位置とは「見守り役」「導き役」となります。

ああしろこうしろと、強要したり支配したりすることはなく、私たちの、自主性を尊重しています。

私たちは、何もかもを好きなように、自由に決めたり選んだりできるわけではないけれど、

しかし、「ある程度の枠内においては、自分の意思と、自分の責任で、いろいろなことを判断し、行動して、人生を進めていくことができる」ようになっていますよね。

けれど、ごくまれに、自分の意思をこえたところで、霊的な「力」が作用して、やろうとしていること、関わっている事柄から「方向転換」をさせられることがあります。

その人にとって、もっともふさわしい方向へ進むように、守護霊の後押しがなされることがあるのです。

人生のうちで、

自分の、個人的な意思や感情的に、こうしたい、こうなりたいと望むことと、

霊的な観点からみた、その人にもっともふさわしいことや、たましいのカリキュラムとして決めてきたことと、方向性が開きすぎてしまうことがあります。

なぜなら、決めてきたカリキュラムがあるとしても、それは動かせないがちがちの枠ではないので、そのときの状況に応じて、優先度が変わることもありますし、新たな反映が加わっていくこともあり(その辺は、わりと柔軟であるようです)

進んでいける、選べる範囲が、かなり広がってしまうことはあるわけです。

そうなると、場合によっては、当初のカリキュラムのほうに「戻される」ような力が働くケースもでてきます。

その人が、たましいの性質として備えている要素が発揮されることや、備えているものが磨かれていくことが、「元の決めてきたカリキュラムのほうが、より大きくいかされる」場合には、

守護霊を中心とした、さまざまな霊的な存在の、大きなバックアップが働いて、そちらの方向へ進むように、促されていくことがあるのです。

逆に、決めてきたカリキュラムより、後から加わった要素のほうが、よりその人らしい力を発揮できるとなれば、そちらが優先されていき、むしろそちらに進むことを後押しされるケースもあるので、

すべての人が、こうした方向転換という強制的な力で動かされる経験をするわけではないのですが。

私たち人間の感覚ではとらえきれない、「霊的な判断基準」によってなされる動きは、壮大な「いろいろ」があるようです。

こうした経験をする場合は、現実面では、何をどうやってもそちらの方向へ進むようになっていき、内面では、大きな抵抗感やら違和感やら、混乱もありますが、

少し時間がたつと、「なるべくしてそうなった」という感覚に落ち着いていくようです。自分のたましいの性質にあっている方向というのは、そういうものなのでしょう。

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