物事全般にクールになってしまうタイプの、価値観の入れ替え方。

いろんな物事に対して、ドキドキ&ワクワクという高揚する気持ちを感じることができず、全般的に冷めていたり、興味が持続せずに、短期間で飽きたり諦めたりしてしまい、目的を定めて持続していくのが難しい、と感じる方がいるものです。

最初はよくても、少し時間がたつと、「ああ、こんな程度か」「こんなもの、なのかな」という冷めたところが出てきて、高揚感が持続しないことが分かっているので、やる気が出なくなってしまっているケースです。

このような方は、何をやってもそれなりにできてしまう、器用な性質を持っていて、感性に鋭いところがあるタイプであることが多いです。

初めてのことでも、ほんの少し経験を積めば、だいだい「その先」がどうなるのか、予測が立ってしまうので、未知のものに対するワクワクやドキドキが薄れてしまうので、モチベーションが続きません。

山登りの途中で、頂上の景色が、「だいたい、こんな感じになるのだろうな」と想像できる段階になると、もう、それ以上のぼりたい気持ちがなくなり、飽きてしまいます。

または、途中まではのぼったけれど、これは自分にはかなりの難関だ、とわかる場合も、早々に「無理だ」という判断をしてしまい、諦めの気持ちが出てきます。

それだけ、自分に適したものを見分けることができているわけで、ある意味、効率がいい、とも言えるかもしれませんが・・・、本人的に達成感が満たされずに、冷めた生き方になってしまうという、側面もあります。

人生経験が増していくほどに、「未知の山」は減っていきます。以前には、「のぼりにくそうな山だな」と思っていたことも、「今なら、のぼれるだろうな」と分かると、もう、登山に取り掛かる前に、気持ちが盛り上がらずに、やる気にならない、という繰り返しで、新しいことに挑む気持ち自体が薄れてしまうこともあるでしょう。

性格的な器用さ、感性の鋭さは、他の人から見ればうらやましいものではありますが・・・、本人としては、これでいいのだろうかという不安や、手ごたえが得られないという焦燥感があると思います。

このようなケースは、物事に対する、高揚感を、とてもわかりやすい感情である、ドキドキ&ワクワクという期待感に求めずに、「気付きや理解の深まり」という形で、得ていくように、意識を切り替えることが有効です。

先に対する期待感がなくなって、のぼりかけた山を降りるのではなく、未知のものに対する期待感はすでになくなっているとしても、別の形で、成長につながるもの、得られるものがあるかもしれない、というふうに、モチベーションを入れ替えていけば、そのまま山登りを続けていく方向で考えることもできると思います。

想像力という感性も、貴重な価値あるものではありますが、実際の経験というのは、それに勝るとも劣らない「宝」です。

先がわかりきっている、と思えても、実際にそれを経験してみれば、得られるものは、事前に予想したものよりも深いものになっているはずですし、事前には想定していなかったものも、含まれているはずです。

そのことに気づくと、世界が大きく広がっていきます。今まで、魅力を感じなかったものにも、引きつけられるものを感じていくことができるでしょう。

コメント

  1. いざり より:

    いつも興味深い記事をありがとうございます

    若かりし頃、ここに書かれているような調子で何にも興味が持てず、三無主義、四無主義と言われるような生活態度で青春時代を過ごしてしまいました。
    当時は人生そのものに対してさえそんな風に思っていて、ある程度の予想のつく分かりきった人生を、なんでわざわざ生きてみなければならないのか理解に苦しむ日々、ただ、生まれたしまったからなんとか1日1日をクリアして、重たい歩みを終わりに向かって進めていくだけの毎日でした。
    唯一自分の想像を絶する驚きと感動に出会えるのが歴史や本の世界で、古い時代の本ばかりを好んで読んでいました。
    そんな自分は異常なのか、世間が分かっていないだけなのか、などという葛藤も常について回ったものでしたが・・・リカコさんような方がその頃近くにいてくださったら、と、ふと思ったりして。
    が、今だからこそのこの出会いなのでしょう。リカコさん、そして、「時」に感謝です。

    自分が異常でないことがわかり、よかったです。

    • リカコ リカコ より:

      いざり様

      若い頃は、自分のことがわからなかったり、世の中がわからなかったりの、迷いの多い時期ですから、いろいろありますよね。経験値が増えると、自分自身をどう運ばせていったらいいかがわかるようになるので、エネルギーの注ぎ先が定まってきますから、バランスがとられるようになるのでしょう。

      年齢を重ねて、経験の価値がわかってくるようになれば、若い頃にそうして書籍から得たたくさんの知識が、判断や解釈の比較対象となって役立ってくれますから、それぞれ順番はいろいろでも、積み重ねてきた経験がまとまっていく時期がいずれやってくるのだと思います。

  2. いざり より:

    ここ1、2年前は多分、転換期なのかな⁇と感じることが多く、その中で、「私は何をやって来たんだろう」という思いがこみ上げて情けなくなる瞬間が何度もありました。
    それが先月あたりから、自分でも忘れていた自分の来し方を巻き込んでいくような急激な変化があって、不思議な体験(内面の割合が多いのですが)をしていました。
    そこへこの記事が目に入りコメントしましたが、リカコさんのお返事は、私にとって、畳み掛けるような・・・。おっしゃって下さった、その時期が、いずれやってくると、少しの濁りもない気持ちで、今、信じることが出来ます。

    ありがとうございました。

  3. いざり より:

    (リカコさん、いつもしつこくてごめんなさい、「畳みかけるようで」で文章をとめてしまったのは言葉足らずだった気がして、補足させて下さい。「いつも私に必要な示唆や教示が自然と畳みかけるようにして訪れるなぁ」という感慨の表現でした。もし、不快に感じてられたとしたら、本当にごめんなさい、悪い意味ではなかったのです!)

    • リカコ リカコ より:

      いざり様

      私はまったく、おっしゃるような解釈はしておりませんし、不快にも思っておりません。

      そのように思われた理由は、私のコメントの返信が遅れたためでしょうか。だとすれば、ご理解をいただきたいのは、鑑定業務、ブログの記事の作成、メールでの問合せ等の対応、フォローアップの対応などの作業があるので、コメントをいただいてすぐに、承認や返信ができる日もあれば、そうでない日もありますことをご理解いただければ幸いです。

      私は、基本的にはコメントを掲載するか否かを選んでおりません。いただいたものは、よほどの理由がない限りはすべて掲載しています。承認制にしている理由は、私がコメント返しをするのを忘れないように、作業にあえて一工程を設けるという形をとっております。それ以上の他意は、特にはありませんので(^_^)。

  4. いざり より:

    そのように思ったのは、ご返信が遅れたためではなくて、あまり柔らかい意味合いで使われることが少ない表現かな⁇と、気を回しすぎたためでして、心配してるより、お伝えしてしまおうと、なんだか今日は思ってしまいました。(わりといつもこんな気苦性・・・苦笑。)
    掲載に関しては、本当に、リカコさんのご判断の通りを、受け取らせて頂く気持ちでおります。遅れとか、掲載されないとかは、全く気にしません。ご返信を頂ければ、それはやっぱり最高に幸せですけれど。

    なんだか余計なお時間をとらせてしまって、申し訳ありませんでした、心から。
    そして丁寧なご返信、ありがとうございました。