人は皆、とても複雑な存在なので、誰の心の中にもいくらかの矛盾は存在します。
たとえば、「有名になって、ちやほやされたい」とか、「憧れられるような、人気者になりたい」と、心のそこでは願っている一方で、
「人間関係が苦手なので、人づきあいをしたくない」とか「人と関わらない生活ができたらいいのに」と、苦しんでいることがあります。
または、「あの人は、どうして自分のことを理解しようとしてくれないのか?」と不満をもちながら、自分自身が、その人のことを理解しようという意思をまったくもっていないケースもあります。
人は、多面体の存在なので、その時々でいろんな面が強調されていきます。相手や状況に応じて、違う顔をもっているのが人間というものですから、
矛盾した要素が同時に存在するのは、誰にとっても、普通のことです。
他人の矛盾は目につきやすい。
自分で自分を客観視するのはとても難しいものです。自分を見る視点には、距離がないからです。
たとえば、顔のすぐ前に置かれた本の、文字を判別することはできませんよね。適度な距離がないと、読めないです。
「近すぎる」というのは、わかりにくいものなのです。
一方、他人のことならよく見えるのは、自分との間に距離があるからです。
「ほどよい距離」が、わかりやすさを助けます。
それゆえ、自分の中の矛盾は、改めて考えてみないとなかなか気づかず、他人のそれはすぐに目についてしまうものなのです。
他人の矛盾に気づいたら、自分も同じだと心得る。
ある時に、「一生懸命、頑張ります!」と、言ったかと思えば、また別のときには、「これ以上、頑張れません」と言った人がいるとします。
言葉だけを並べれば真逆ですが、その人の中では、どちらも自分の思いとして、並び立っている普通のことだという認識で、発言しているのかもしれません。
他人の矛盾は、殊更に目につきやすいので、言葉だけを追って「なんだ、ずいぶんといい加減な人だな」などと、判断してしまいがちですが、自分にも矛盾はありますので、自分もそういう言動を無意識に行っている可能性もあります。
自分のことは「自分にとって、馴染んでいる要素」なので、矛盾を矛盾と思わずに似たような言動をとって、そして(自分が他人に思うのと同じように)他人から、「以前の発言と違うじゃない」と、同じように思われている可能性もあるということです。
そういう言動を、無意識に、お互いにとっているのがこの世の人間関係で、適度に許容していくことも必要になってくるでしょう。
あまりに細かくこだわりすぎると、会話も付き合いも、うまくいかなくなることもあるかもしれません。
限度越えで矛盾ありすぎ、という極端な人は困りますが・・・、誰もがいろんな面をもっているという理解は、自分をこだわりから解放して楽にしてくれると思います。
改善をうながすのは、そのことで迷惑を被る場合のみ。
しかし、そんな中でも、誰かの言動の矛盾により、仕事が滞ったり、伝達が混乱したりという、大きな影響が出てしまうものには、一定の社会のルールにしたがって矛盾を正してもらうことは必要となるでしょう。
その場合は、感情ではなく「事実」が大事なのですから、指摘する側も、自分の感情でものをいうのではなく、事実に基づいて指摘することが大切です。
感情や思いの点だけとらえるならば、度合いの差こそあれ自分にだって矛盾はあるもので、相手だけが矛盾を抱えているわけではないので、(感情面での)見る目が厳しくなりすぎないように、そこは注意しましょう。
相手の矛盾に気づいたら、自分の矛盾を省みる機会とする、という、そのくらいの捉え方をしていけたら、ちょうどよい距離感がつくられると思います。
自分も、許容してもらっているかもしれない。
他人の矛盾に気づくと、気になって指摘したくなります。相手が強気な発言をしていたり、自分を低くみるような態度をしていたらなおのこと、その点をしてきして、やりこめたくなったりもするかもしれません。
けれど、大人同士の人間関係では、何でも言えばいいというものではないということです。さほどの影響はない、些細なことなら「そのまま」がベターとなる場合も多いです。
自分も無意識で同じような発言をして、しかし、あえて指摘せずに許容してもらっていることも、あるいはあるかもしれないと思えば、こだわりを手放していけますね。
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