すべてに対して力を抜くことができず、疲弊していても頑張りをやめられない人がいるものです。
他人のやるべきことも自分が代わりに行い、自分のやるべきことは誰よりも高い質で行い、「これ以上できない」というくらいにやりきって、やっと気持ちが落ち着きます。
自分でもなぜ、ここまで頑張ってしまうのかわからない、誰かに強要されているわけでもないのに困ってしまうという人は、以下が当てはまるかもしれません。
年上の誰かの頑張りを、証明しようとしている。
両親や祖父母などの年上の家族や、目上の立場の人、たとえば新人の頃にお世話になった上司などが「とっても頑張っていた」ことを、自分も同じように姿勢にあらわそうとしてしまうことがあります。
その人と同じように自分が行動して成果をあげることで、その人の頑張りが正しいことだと証明したくなるのです。
つまり、その相手に好意や尊敬の思いがある場合に起こりやすいです。嫌いな人の証明を自分がしてあげたいとは思いませんから。
自分が認められれば、相手も認められることになるという思い。
たとえば祖父母がとても苦労して頑張っていた人で、自分が祖父母に世話になったという思い入れが強いとします。
しかし、その頑張りほどに祖父母は周囲から評価されていなかったのでは、という認識があると、自分が「同じパターンで行動をして結果を出し、祖父母の頑張り方が正しいことを、代わって周囲に証明できるように」という行動を、無意識にとってしまうことがあるのです。
結果をだすことで、自分がその「正しさ」を周囲に知らしめて恩に報いたいという気持ちがあって、頑張りをやめてしまうと、自分もその人を否定することになるという怖れから、力を緩めることができません。
こういうケースは、女性に多いですね。女性のほうが、男性よりも「共感力」が高いためでしょう。
そして、自分とその相手の性質が、とてもよく似ている場合に起こりがちです。
自分らしく頑張ることで十分。
このパターンに当てはまる人が、まず理解することは「その人の人生と、自分の人生は(たとえ性格がよく似ていても)それぞれ別である」ということです。
自分のよりよい人生のために、参考にしていかすのは素晴らしいけれども、相手を自分に重ねすぎないことです。
自分がその人と違う姿勢で過ごしても、恩を感じている相手の姿勢を否定することはなりません。
自分にふさわしいペースで頑張る中で、学んだことを体現していけばそれで十分です。
ただ現実的にはなかなか、全力でこいでいる自転車のバランスになれていて、それが普通になっているので「力を抜いたら止まってしまう」という思い込みから、緩めるのは難しいものではあります。
こういうタイプの人は、今やっていることを止めるという方法ではストレスが大きくなります。あれでよかったのか、自分が弱かったのでは、もっと頑張れたかもと気になって自分を責める方向にいってしまうからです。
現実的な方法としては、「今やっていることを、もう少し軽めな別のことに置き換える(ことで負担を減らす)」のがいいと思います。
そうした経験から、「少し緩んでも大丈夫」とわかっていくと、ちょうどよい頑張りができるでしょう。
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