人生に苦労が多かった方にときどき見られる傾向として、「楽しいことをそんなに求めない」だけに留まらずに、「楽しいことから遠ざかろうとしてしまう」人がいます。
自分を安定させて楽にするためには、楽しいことをしないほうが、「正しいこと」であり、「そのほうがうまくいく」と思ってしまっています。
この人生で、とても苦労しながら頑張ってきましたから、「うまくいくためには苦労が必要」であり、「楽しんでしまうと、うまくはいかないだろう」という前提が、いつのまにか作られてしまっているのです。
我慢や苦労のほうを、肯定してしまう。
こういうタイプの人は、楽しみを否定してはいないのです。楽しみを求めたいし、そうできたらいいのになあ-、という表面的な思いはあります。
しかし、心の深いところでは、楽しまないこと、我慢すること、苦労することのほうを、肯定しているところがあって、楽しみの行動を自らが取ることにブレーキが掛かってしまいます。
「苦労してここまでやってきた方法こそが、最善で正しい方法であり、別の方法をとれば、また苦しい状況に自分を追い込むことになってしまう」という思いが根底にあるので、楽しみたいという気持ちに、行動を伴わせることができません。
緩むことに、怖れがでてしまう。
他の人からすれば「何も、そこまで構えなくても」と見える状況なのですが、本人としては、そうしなければ大変になってしまうという怖れがあります。
例えるならば、力いっぱい握っているものがあって、もし力を緩めたときに、落としてしまったらどうするんだ!という怖さゆえに、「それでも問題ないかでないどうかを、確かめられない」のです。
少しでも自分を脅かす可能性を減らしたい、そのためには多少、備えすぎというロスがでても構わない、それでも前のように苦労するよりずっといいという緊張感が、楽しむための余裕を、自分に与えない状態です。
しかし、冷静になって考えてみれば、「今の自分は、たくさんの知恵と経験値をもっている」成長した状態です。その分、余裕をもつことができるはず。
そのことに気づくと、少し、怖れから距離をとることができるのではないでしょうか。
楽しみを経験してみると、怖れを安心に変えられる。
一般的に、緊張感を持ち続けるよりも、ときどき緩みを加えていくほうが、オンとオフのメリハリがついて、ものごとの進みがスムーズになるものです。
もちろん、すべてに当てはまりはしませんが。
同様に、すべてに緊張や苦労をあてはめなくてもいいですよね。
そういう考え方を、自分に許可してみてください。
ときには「楽しみのための機会」をもっても、自分の人生は「大丈夫」であると、自分を使って試してみてください。小さい規模で、無理のない範囲でやってみたらいいのです。それなら抵抗感も小さいですよね。
そうすると、ほとんどのケースで「少しくらいは、大丈夫なようだ」という結論になるはずです。
経験の積み重ねで「怖れ」と「大丈夫」という境界線の位置が、変わっていくようになります。
多少の楽しみや緩みが、これまでの努力を覆したりはしないし、むしろそうした新たな経験によって、気づいたり知ったりするというメリットを実感できれば、楽しみへの認識が変わっていきます。怖れが減っていき、ブレーキは緩んでいくでしょう。
楽しみを、経験しなければならない、ということではいし、楽しむべきということでもないのです。何を重視するかは、人それぞれ違いがありますし、自由ですからね。
しかし、いずれの場合でも、楽しみというものをあえて排除はしなくても「大丈夫」なので、抵抗感の少ない行動から一歩を踏み出してみてはどうでしょうか。
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