相手を褒めているつもりが、「説明」になってしまうことがある。

冷静で客観的にものごとをとらえる視点を持っている人が、「相手を褒めよう」とした発言が、意図と違うふうにとられて、誤解されてしまうことがあります。

本人は、褒めているつもりの言葉が、相手には「そのように聞こえない」という、温度差がついてしまうことが原因です。

具体的な語りが、説明的になってしまっている。

そうした誤解を招いてしまう理由は、「冷静で客観的な視点」ゆえの「説明口調」です。

素晴らしい「評価ポイント」について、自分はこんな点がいいと思った、こういうところがこんなふうに優れていると思った、という内容が、冷静で分析的過ぎるあまり、褒められているように聞こえず、説明されているような事務的な印象を与えてしまうからです。

たとえば、「あなたの、ああなって、こうなって、その結果がこんなふうになって・・・、それが○○に繋がり、××を助けて、結果が以前より3割増しとなって素晴らしい」、という説明は、とても具体的でわかりやすいです。

その件に無関係の第三者が、状況を把握するためには役立つものとなるでしょう。

けれど、その話題の当事者にしてみると、自分を褒められている・・・というよりは、いちいち定義されているような、むしろ、ダメだしでもされているような感覚になることも、人によってはあり得るのです。

わかりやすく伝えようと、事実のほうを強調しすぎてしまうと、事務的な説明のような印象を与えてしまいます。

感情を排除することで客観的にわかりやすくなることは確かですが、しかし、それがまったくなさすぎても、個人的な思い入れというエネルギーが乗らなくなって、意図が伝わりにくいことがあるのです。

まったく別のケースを例にしてみます。たとえば、失敗したときに、すみませんと詫びをいれずに、「その件は、このような理由の行き違いからタイミングがわるかったようで失敗しました」というふうに、事実だけをのべると、

発言している側は、なぜ失敗したかの理由を「必要事項」として説明しているつもりでも、聞く側からすると、言い訳をしているような印象になることがあります。

褒めることも同じで、事実のみを述べるだけになると、内容が具体的であるほど、まるで「必要事項の伝達」のような印象を与えてしまうことも、場合によってはあるんですよね。。。

事実の説明に、個人的な「感想」を加えて話す。

真面目な人は、「個人的な感情を除くほうが、丁寧な印象となって、自分が相手を尊重していることが伝わるのでは」とか、複雑に考え過ぎて、幾重にも配慮したことが逆に、上記のように誤解を招くことも結構あるものです。

褒めているはずが、相手に悪くとられてしまうとか、相手が喜んでいないような微妙な反応になってしまうときには、自分の発言が「具体的に伝えようとしすぎて、説明になっている」ことはないか、考えてみてください。

もしも、自分の言動が該当しそうならば、「具体的な説明は、それまでの半分くらい」に留めて、そこに個人的な「感想」を加えて褒めるように、比率を変えてみるといいでしょう

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