機転がきくことをいかして、うまく立ち回り、自分だけが一方的に得をすることが「できた」ように思えても、長い目でみればそうはなりません。
この世でおこるできごとはすべて、「カルマの法則」で展開していきますから、自分がまいた種は、何らかの形で自分が引き受けることになります。
正当な競争や努力によって得るものはもちろん問題ありませんが、誰かの犠牲を伴って「得したこと」を、本当の意味で自分が「得る」ことは、長い目でみれば、できないようになっています。
策を弄して相手を騙してまで、得をしたいと考える人は少ないかもしれませんが、相手の厚意や奉仕的精神を利用したり、それを「してもらって当然のこと」のように解釈して、自分だけが得をするように動いてしまうことは、あるのではないでしょうか。
この世は、人と接することで、お互いに助け合いながら生きていく場所ですから、「お互い様という解釈の範囲内のこと」や、提供したことへの見返りとして、自分の権利や、相手の厚意を受けていくことは問題はありません。
けれど、その「範囲内」を逸脱して、自分がうまく立ち回って得をするために、一方的に相手を利用するのは問題です。
自分だけが得をすれば、相手に「範囲外」の負荷がか掛かろうと、まったく気にならないという、利己的な行いをとれば、何らかの形で、そのことを自分が学ばされるような出来事が起こるのが、この世のしくみです。
利用した相手が何も言わなくても、「カルマの法則」がある以上、「(人を)利用すれば、(自分も)利用され」ます。
また、「自分だけうまくやって、こんなに得をして、ラッキーだった」と思っているのは、「本人だけ」であり、利用された側の人も、それをみている周囲の人も、本当はそのことに気づいている場合も多いです。
相手の厚意を利用して、自分だけが得ができたと、その時は一瞬そう思えても、長い目で見れば、「カルマの法則」により、自分のしたことは自分に降りかかり、そして、利用した相手からも「この人は、精神性が低く、感性が幼い」と、心の中では思われるのです。
仮に、利用した相手本人からは、何とも思われないとしても、その様子を傍から見ている第三者からは見抜かれます。岡目八目という言葉があるように、距離のあるところからは、いろいろ見えるものだからです。そうして、思わぬところで評判を落とすという形で、カルマが返ってくることもあります。
「カルマの法則」は、相手が気づこうとそうでなかろうと、必ず作用していきます。そして、自分が気づこうとそうでなかろうと、やはり作用していきます。
自分のすべての行動を、ひとつひとつそうして意識していくことは不可能であり、そこまでは不要ではあるけれども、しかし、人として、大人としての品性が感じられる行いを、積み重ねていきたいものですね。
コメント
今回のこの掲載の意味もよくわかります。
私の会社でも
自分の能力がすごいと、評価を得ようとして派手に演出する人がいます。
そのような人たちがいる中で
損得を考えない精神面の強さが必要なのかもしれませんが、
正直、私も毎回辛いのもイヤなので多少、計算してしまうことがあります。
これからは気をつけたいと思います。
世の中の付き合い、ふるまいにおいて、計算することは普通のことであり、その方が適しているケースもあるでしょうし、計算が悪いという意味ではないですよ。
また、自分の評価を演出することや、アピールすることも同様に、それが悪いということはないと思います。
ここで書いているのは、記事内にあるとおり、許容範囲内を逸脱して、相手に負荷を掛けても平気というような利己的な行いをした場合のことです。
つまり、「相手を貶めてでも自分が得をするような立ち振る舞いをしてメリットを得るような、極端なケースのことを述べています。
そうした形で得たものは、一時的には自分に多くのものが得られたように思えても、長い目でみれば、自分がしたことは自分に戻ってきて学ばされるようになっている。そうしたスピリチュアルなしくみが存在するということの説明ですね。
私もいつも身内に頼られ、みんな上手に自分は逃げているように感じでいましたが、考えてみれば、色々な形で返って来てるような気がします。お人好しな性格も利用されているだけかと思いましたが、広い目で見ると、子供がしっかり見ていたり。ありがとうございます。
みっちゃん様
自分と違う相手との関わりは、いろいろな視点でのとらえ方を自分に与えてくれるというメリットもありますよね。
そして、その動きを第三者がみていたり、お子さんがみていたり。そういう形で、相手に学びを与えられたりもしますし。
ですが、自分だけ割りをくっていると思うならば、その度合いを正すという動きを、自分がとっていくことも必要だと思います。