私たちが、人としての経験をつんで学んでいる「この世」という場所には、時間が存在します。時間というしくみは、この世特有のものです。
- この世=時間というしくみが存在する
- あの世=時間というしくみは(この世と同じような意味では)存在しない
時間がなければ、「比較」ができない。
時間があるからこそできることで、時間が存在しなければできないことに「比較」という行為があります。あれとこれを比べて、違いがわかるというこの感覚は、実は「時間」が与えてくれています。
たとえば、「昨日起こったこと」と、「2年前に起こった」ことを、私たちは区別することができますよね。「ずっと前のこと」と、「ごく最近の、少し前」のこと」という差を、とらえることができるからです。
この時間による記憶の新しさとか、認識の感覚というのは、この世に時間があるからこそつくられる差であり、時間がなければこうして比べることができません(なにもかも、どれもが、「すべてひとつ」になってしまうと思われます)。
「2年前の記憶」と「昨日の記憶」を比較して、「こちらのほうが最近である」と認識できることを、私たちは普通で当たり前に思っているけれども、しかし、これはこの世だからこそできることで、時間というしくみが与えてくれている感覚です。
- この世=時間というしくみによって、比較できる
- あの世=時間という感覚がないため、比較はできない
わけてとらえることも、この世だからこそできる。
「あれと、これというふうに、物事をわけてとらえること」も、この世だからこそできる行為です。あちらの世界には、時間という感覚がないので、比較するような差がつかず、わけることができません(わけられないから、比較ができないとも言えます)。
スピリチュアルな説明において、霊的な世界(あの世)を「絶対の世界」と定義し、こちらの世界(この世)を「分離の世界」とか「相対の世界」と表現することがあるのは、上記のような「時間」のあるなしによって決まります。
- この世=「あれ」と「これ」をわけてとらえることができる。
- あの世=すべてひとつで、わけられない。
時間による、移り変わり(有限)を学ぶ場所。
こちらの世界とは、時間によって、移り変わりがあることを経験して、そこから学びを得ていく場所ともいえますね。
子どもから大人になるという変化、四季の移り変わり、(数十年もあるとはいえ)永遠ではない命という時間を過ごすことで、わけてとらえることや、比較をする中で、いろんなことに気づき学んでいく場所だということです。
そう考えてみると、時間というしくみの壮大さや、与えられている時間の価値がよくわかるようになります。自分に備わっている、命という時間をどう使っていくか、そういうことを考えてみると、毎日の生活への見方もかわっていくのではないでしょうか。
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