「時間」という感覚は、この世特有のものです。あちらの世界には、私たちがこうして普通に認識している「時間という感覚」を覚えることができません。
時間は、この世で「変化」を学ぶしくみ。
時間というしくみがあるからこそ、この世では「あれ」と「これ」という区分けの認識ができて比較ができます。
しかし、あちらの世界は区分けがないので比較ができず、たとえば昨日と今日との差、今と3年前との差という違いを、(私たちが認識しているような、時間の経過という感覚を通しては)把握することができません。
この点が、こちらの世界が「比較の世界」や「相対の世界」といわれ、あちらの世界が「絶対の世界(相対の世界の逆)」といわれる所以です。
転生が少ないたましいは、時間の感覚も薄い。
私たち人間は、何度もうまれかわってたましいの学びを重ねています。そうした生まれ変わりの経験が多い人は、それだけ「時間という感覚にそって過ごすことに慣れている」といえます。逆に、生まれ変わりが少ないたましいは、「時間という感覚の経験値も浅く」なります。
そのため、こちらの世界に慣れていないたましい、つまり人としてこの世で過ごした回数や年数が少ないたましいは、「時間」という概念に沿った生き方をするのが、うまくできないことがしばしばあるようです。
時間という感覚そのものが薄くて、期限を守ったり、待ち合わせをしたりすることが苦手であるとか、その作業がどのくらい掛かりそうかという想定がつけにくいとか、または、人は歳を重ねていくもの(いつまでも若いままでいられない)という感覚がよくわからない、などです。
時間の感覚が薄いのは、ある意味「霊的」ともいえる。
「この世の経験が多いたましいの人」からみると、そうした時間の感覚が薄い人は、社会のしくみを理解しない、人にあわせることができない「困った人」、「幼い人」であると思えてしまうかもしれません。
しかしある意味、時間という、この世特有の枠におさまっていないその感覚は「霊的である」とも言えます。
霊的な感覚のほうを、たくさん残したまま過ごしている(こちらの尺度に慣れていないだけで)とも言えますから、その一点だけでは人を計ることはできません。
霊的な感覚をたくさん残し、しかし現世的な感覚が(慣れていないので)身についていない状態を、幼いというひと言でくくることはできず(この世的な尺度だけでは計れず)、たましいの上での優劣は、本当は存在しないのです。
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