自慢をしているように、誤解されがちな話し方。

自分では、全然そんなつもりはないのに、話したことが「自慢話」のように受け取られてしまう、誤解されてしまうことが多い人の「話し方」には、共通点があります。

ひとつは、「自分の話ばかりすること」、そしてもうひとつ、「話にオチがないこと」です。この二つの要素が両立している人が、そのような受け止め方をされてしまうことが多いといえます。

 

基本、会話というのは、人と人とのやりとりであって、自分だけが一方的に話すことで成立するものではありません。そのつもりがないのに自慢していると誤解される人は、自分が言いたいことを、相手の反応をお構いなしに話してしまうところがないか、自分を省みることは大切だと思います。

「自分が、話したい」からといって、そのとき「相手が、聞きたい」とは限りません。相手の状況を考えながら、相手が聞く姿勢になっているときに言うとか、聞いてもらう状況を整えてから話す、という工夫は必要です。

そしてもうひとつ、結局その話は、何がいいたいのか要点がよくわからない、話にオチがない人の話は、自慢と受け取られがちです。

オチというのは、笑いの要素という意味では必ずしもないですが、何か、「その話をすることの目的」というか、「その一連の話で、相手に訴えたい内容」、「中核となる要素」がよくわからない場合に、「・・・で、結局何がいいたいの?自慢?」と、解釈されてしまうケースが出てきてしまいます。

たとえば、「出掛けた先で、ある芸能人を見かけた」という話題を話す場面があるとして、「昨日、○○に行ったときに、なんと、芸能人の××さんを見かけて、めったにいかない○○に行ったタイミングだったから、びっくりしたけど、芸能人も行くってことは評判の良い店なのかもね、今度一緒にいかない?」と発言するとします。

それを聞いている側は、「その人が、芸能人をみてびっくりした」という情報とともに、「○○という店は、芸能人御用達らしい」という情報と、そして、「今度、一緒にいかない?」というお誘いを、会話の中から得ていることになります。

話す側の一方的な経験や思いの伝達だけでなく、聞く側の人にも、活用できそうな何かが含まれていますから、「芸能人を見たという自慢」にはならず、「芸能人もいくような店に出入りしている自分の自慢」のようにも、受け取られることはあまりないと思います。めったに行かない場所だ、ということも、会話の中で伝えていますからね。

けれど、このような言い方だったらどうでしょう。「昨日の夕食に、両親と、○○に出掛けて。そこで、芸能人の××さんを見かけた」と、それだけを伝えられても、聞いているほうは、「へぇー、・・・すごいね」となるか、「ああ、そうなのね。(・・・で、何が言いたいのか?)」という反応になるだけで、話に広がりがありません。

聞く側としては、「食事に出掛けた、両親と出かけた、芸能人を見かけた」という以外の内容が含まれていないので、なぜ、それを自分に話すのか、と考えた場合に「ただ、それを言いたいだけなのだろう=自慢なのだろう」と、思ってしまうこともあるのです。

そんなつもりがないのに、自慢話に思われてしまう人の話し方とは、その多くが、伝えたい要点がはっきりしないか、または、まるで日記のような「時系列にそった自分の行動の説明のみ」をしています。それでは、話を聞いている相手も疲れるので、否定的な受け止め方をされてしまいがちです。

聞く側の、相手のことを考えた会話や発言をするならば、一方的に自分の言いたいことだけを言うこともなければ、時系列にそった説明だけの会話をすることにもならないはずです。そういう部分の、気配りをわすれてしまうと、「ただ言っただけ」のはずが、「自慢だと受け取られてしまう」ことも起こり得るのです。

自分にとって普通になっている発言の習慣は、何が原因で相手との温度差を作りだしているのか、自覚することが難しいものですが、相手の反応から逆算して、考えていくことは有効な方法だと思います。

自分ではまったく他意がなくても、相手にはそう受け取られないことが、一度や二度ではなく、しかも、複数の相手から同じように指摘されてしまうときには、この2つについてまずは考えてみてください。

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