誤解されることが多い人は、基本、言葉が足りていないというか、言うべきことを言わず、伝えるべきことを伝えていないのに、そのことに自覚がないケースが少なくないようです。
会話の中で、説明や主張の言葉が少ないので、相手の憶測を生みます。そして、意図したことと違う受け取り方や解釈をされてしまうことから、「誤解」という落差が作られます。
「憶測」というのは、自分かってに推しはかること、いいかげんに推しはかること、で、類語には、「当てずっぽう」があります。
このように言葉の意味をとらえると、勝手な解釈をしている相手のほうに、誤解の原因があるように思えるかもしれませんが、しかし、そもそも、相手が憶測で解釈しなければならないのは、普通に解釈するための、十分な説明や主張がなされてないためでしょうから、そう考えれば、相手だけが悪いとは言えませんよね。
十分な言葉で主張や説明をしていれば、相手の憶測が入る余地は、少なくすることができます。
それぞれ、違う個性をもった別の人間ですから、どれほど言葉を尽くしても、まったく同じに理解することはできませんが、最低限のところで共通認識を持つくらいは、可能だと思います。(そうでなければ、世の中の仕組みもルールも、機能しませんからね)
いつも誤解されてしまう人は、自分のコミュニケーションを見つめ直してみましょう。言葉が少ないことはないでしょうか。言わなくても分かるはず、言わなくても察してほしい、察しない相手が悪い、なぜ、察してくれないのか、と、相手にその原因の大部分があるかのような解釈になっていないでしょうか。
そして、自分は「具体的に、誰に」誤解をされてしまうのか、そういう分析をしてみることも大切です。男性からの誤解が多いのか、女性からの誤解が多いのか、上司や親など目上の人からのみ誤解が多いのか、初対面や付き合いの浅い間柄で発生するのか、など、自分のパターンを見つけ出してみます。
たとえば、目上の人からの誤解が多く、友人からは誤解されないのであれば、おそらく、「目上の人と、同列の人と、接する時の言動の使い分けをしていないか、しているつもりでも出来ていない」ことが「推測」されます。
推測と憶測は、違います。推測とは、相応の事柄や根拠に基づいて推しはかることを言います。分析的思考をすれば、根拠となるものを絞り込むことができます。
会話において、どのくらいの発言量になれば、おおよそのところが相手に伝わるだろう、と判断するかの基準は、通常、自分自身が解釈をする側になる場合を想定していくものです。
たとえば、「自分なら、このケースだと、かなり詳しい初歩からの説明がないと内容がよく把握できないから、相手に伝えるときも、同じくらいの発言量にしないと、相手もわからないだろうな」、というように、自分に引き寄せて考えます。
その仕組みから逆算で分かるのは、会話の際に、言葉が少ないために誤解されるタイプの人、というのは、「自分自身が解釈するときも、言葉が少なくてすむ人」と、言えるのではないでしょうか。だからこそ、相手が理解するために、たくさんの言葉が必要で、それを満たしていない自分の発言量に誤解の原因があると、わからないのです。
つまり、自分自身もまた、実は、相手の言葉が少ないときに、「憶測」で解釈していて、それで通じている、と、認識している人が、自分も同様に少ない言葉のコミュニケーションをとった結果、誤解を招いてしまうのですね。
自分も、実は、憶測で相手の発言を解釈していながら・・・、相手から同じように、自分が憶測で判断されたときにのみ、「誤解されている」「分かってくれない」と思っている、それが、誤解で悩んでいる人を、少し距離をとったところから眺めた全体像だったりします。
相手に自分の主張や説明がきちんと伝わり、誤解をされない会話をするためには、「自分の言葉が少ない」のではないか、と考えてみることと、そして同時に、自分もまた「相手の発言を憶測で判断」していないか、つまり、自分もまた誤解をしていないか、気を付けていくこと、その二つを心掛けていくとよいと思います。
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