「肉体の年齢」とは別の、「たましいの年齢」がある。

私たちは皆、たましいという永遠の存在であり、この人生というのは(たましいの観点からすれば)一時的なものです。

私たちは、たましいの学びのために、何度も生まれ変わりを重ねます。そうした生まれ変わりの経験値は、たましいの領域に刻まれていきます。過去の生まれ変わりの経験は「前世」と呼ばれますね。

たくさんの経験値をもっている人(前世の回数が多い、または、前世のべ年数が多い等)の人と、あまり多くはない人がいれば、そこには、感性や霊性の差がつくことがあります。

たくさんの経験値をもっている人は、物事に対する認識に「深さ」があり、経験値がまだ十分ではない人は、「浅く」なってしまうという、開きがでることがあるのです。

これが、「たましいの年齢」です。

感性や霊性として備えてくるものの構成は、経験値の量だけでは計れず、その他にもいろいろな兼ね合いがありますから、一概には言えませんが、

全体的な傾向としてはやはり、生まれ変わりの回数が多いとか、人生経験の延べ年数が多い人は、器が深い人が多いようです。

人としての感性の深さ、ものごとへの認識のしかたなどは、「肉体の年齢」とは必ずしも比例せず、「たましいの年齢」が関わってくるということです。

この世的な肉体の年齢が高くても、たましいの成熟度はまだ十分ではないケースもあるでしょうし、逆に、この世での年齢は若くても、たましいの経験値が多くて、深いものを備えている人もいます。

そうした、「たましいの年齢」と「肉体の年齢」との兼ね合いが「いろいろ」な複数の人が、同じ場所に集まって学びをしているのが、この世という場所です。

年長の家族や、上司や、先生が、必ずしも、自分よりもたましいの経験値が多いとはかぎらず、「目上の相手の、理想的ではない姿勢」に、苦しめられることもあるかもしれません。

または逆に、自分のほうが肉体の年齢は若いのに、先頭にたって率いていく役割を求められる状況におかれて、負担になることもあるかもしれません。

そうした、この世的な肉体の年齢で比較すれば、理不尽で苦しいと思える経験も、それとは別の、「たましいの年齢」ともいえる経験値の差から生じているものがあるという見方をしていけば、

その経験から学べるものに、気づくことができるのではないでしょうか。

コメント

  1. 真由美 より:

    そう思います

    夫婦でそこが一番 堂々巡りの部分です

    • リカコ リカコ より:

      お互いに、違いがあることの比較によって、
      気づかされることも多いでしょうから、
      この世とは「そういうことをも学ぶ場所」なのでしょうね。