何かの原因があり、そのことが結果として展開していく。自分が原因をつくったことが、自分の人生に結果をあたえていくことになるという、スピリチュアルなしくみのことを、カルマの法則といいます。
この繋がりを、種まきにたとえて「種を蒔いたことが、実るしくみ」と表現されることもあります。
カルマの法則は、今世の時間内のみで展開するとは限らず、前世や来世にまたがって、作用していくこともあり得ます。
この人生において、その結果を得るための、努力も苦労もまったくしていないのに、いきなり大きな結果がだけがもたらされる、いわゆる「たなぼた」が起こることがありますね。
憧れの人と突然、関わる機会が作られて、自分も引き上げられて、仕事がとてもうまくいくようになったとか、前から望んでいた活動の機会に、思いがけずめぐりあって大成功したとか。
たなぼたとは、労せずしてよいものを得るという意味ですが、
しかし、まったく何も原因がないところから、いきなり結果だけが生じることはないので、
こうしたケースは、たとえば、自分が認識していないくらいの小さい原因が多数、積み重なって、大きな結果に繋がったのかもしれません。
または、前世で努力をしたことが、時間を経て、今回の人生で実った、ことも考えられます。
スピリチュアルな観点からすれば、前世も今世も「同じたましいの自分自身」なので、こうしたつながりは不自然ではないのです。
ときどき、「何も努力をしていないのに、いきなり大きな結果を手にしてしまい、後からその分の災いが降りかかるのではと心配だ」というご相談をいただくことがありますが、
上記のとおり、前世からの繋がりが、今世で結果になるケースはありえますし、
または、今世の努力と、前世の努力と、両方が作用している結果ということもあるでしょう。その場合、自分の意識上では、前世のそれをカウントしていませんから「何もしていないのに、大きな結果が・・・」という印象になっているのかもしれません。
こういう言い方をする人は、謙虚なので、何もしていない、という表現をとっているだけで、実際のところはそうではないはずです。
いくら前世でたくさんの、実りに繋がる種を蒔いたところで、今世で本当に何もしていなければ、実る展開そのものが作られませんからね。
謙虚な人は、自分の行いを過小評価するところがありますけれど、その点は、もっと自分の努力を認めていいのではないでしょうか。
よって、「努力をしていないのに、大きな結果が・・・」と、恐れたりはしなくても大丈夫と思います。けれど、どうしても恐怖心が抜けないならば、結果が出た後の時点からでも、自分が納得する努力をして釣り合い?がとられるようにすればいいだけですね。
このように、前世で種をまいたことが、今世での小さい行動によって引き出されて、大きく実ることはあり得ます。
前世のそれも、今世のそれと同じように「自分の行い」なのですね。
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