他人がいるからこそ、自分に気づくことができる。

他人の存在は、自分との比較対象となり、自分を知ることにも役立ってくれます。

他人との関わりの中で、それぞれの意見の違い、姿勢の違い、価値観の違いに直面して、それとは違う感性をもっている自分に気づくことになります。

たとえば、山田さんが「Aという手段を優先して行った」とします。それをみて「自分だったら、あの手段はとらないけれど。きっと自分ならBを選ぶだろう」と考えたなら、山田さんのようすを通して、Bを選ぶ自分に気づくことができます。

つまり、自分は、Bを好んでいたり、Bを役立つものだと認識していることに、気づきます。

これは「へえ、山田さんはそういう方法をとるんだね」と思ったことが、思考のきっかけになります。

自分だけのことなら、「自分は、このことを、こんなふうに好むんだよね~」なんて、わざわざ考えたりはしませんよね。

自分の中には、そうした、「わかってはいるけれども、強くは認識していない、いろいろな基準や価値観」がたくさんあり、他人という存在が比較対象となって、そのことを気づかせてくれます。

私の以前の経験から、一例をあげてみます。

数人の集まりの中に、喜怒哀楽の幅が大きく、どんなことがあって、自分がどう思ったかという、主観的なことを語ることが好きで、皆でその話題を共有することが好きな女性がいました。

その日も、そうした話題をいろいろお話なさっていて、あるとき、「最近、感動したことは何?」と、私に話しかけてきました。

えっ、前置きなく唐突にその話題?と、少し驚きましたが、しかし、普段の生活で意識することがない内容だったので、新鮮でもありました。

「私は、・・・最近、感動したことは何だろう?」と考えてみても、すぐには思い浮かばずに答えらえなかったように記憶していますが(^_^;)、そうした話題の選び方があまりに新鮮で今でも覚えています。

私なら、そういう場では、答えやすくて間が持つような、無難な話題をしようとするので、ある意味「その方の、その話題の選び方に感動」しましたね。

そういう考え方の人もいて、そういう話題を選ぶ人もいるんだなあ、と。

そして、「私自身は、主観をベースにした言動を優先しないほうであり、それが良いことだと思っている」ことにも、改めて気づきました。

このように、違う個性の他人の存在が、自分のことに気づく機会を与えてくれています。

自分で自分に気づくというのは内的な作業ですが、そのきっかけはほとんど、自分の外側から与えられたものとなりますから、他人という存在は、気づきのために大きな役割を担ってくれているということです。

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