人の感情や思いは、とても区分けが曖昧です。
Aという思いと、Bという別の思いは、位置付けとして隣り合っていて「その思いを抱く側の認識が自然と、それとは別の近いものへ移行していく」ことがしばしば起こります。
AのつもりがBになったり、Bへの思い入れがAのへの関心を引き起こしたりして、広がりがでていきます。
そして、そのことに「自分ではなかなか気がつかない」ものです。
たとえば、誰かに「尊敬を抱く」思いは、とても簡単に、その人への「好意的感情」に繋がります。先生や上司など、自分に必要なことを教えてくれる相手への「すごいなー」という思いが、相手への「好意」や「恋愛感情」になることはよくあります。
同様に「評価されること」と「好かれること」も、とても似ている部分があって、評価されるためには、相手から好意的に思われているかどうかが、意外と関連するもののようなのです。
つまり、評価するという思い入れをもつと、そのことに対して好意的になりやすく、その事柄や相手に好意的になると、自然と評価していこうという意識になりやすいといえます。
評価されるためには、数字をあげるとか、成果を出すことはもちろん大前提です。
しかし、ちゃんとそちらは達成していても、なぜか評価がいまひとつ、となってしまうことがあるなら、「自分は評価してくれる相手から、好意的にみられているか」という観点から、自分の言動や姿勢を振り返ってみることは役立ちます。
学校という場所で、自分が「生徒」の立場でいるときは、成績という数字が、何よりも優先する判断基準となりますので、これはとてもわかりやすいのですが、社会における判断基準は実に「いろいろ」です。
数字だけではない部分、たとえば「上司の個人的な好み」で判断されてしまうことも、誰もが一度や二度は経験するものではないでしょうか。
人が判断することには、曖昧さがあります。判断する立場の人が、個人的な好みなどは含めていないつもりでも、実際には、なかなかそうはならないものです。
圧倒的な数字の差があれば別でしょうけれども、ちょっとの差なら数字が低くても、好意的な見方をしてしまう相手に、高い評価がついてしまうこともあります。
これは、判断をする人の心の中で、「評価すること」と「好意的に思うこと」が近い位置にあることが、少なからず影響しているのでしょう。
中には、意図的に贔屓しているケースもあるかもしれませんが、無意識で(思いの質がとても近いために)そうなってしまうケースもあるのです。
こうしたしくみをふまえると、評価されるためには、「事実としての成績や成果をつくる」のはもちろんのこと、「好意的にみてもらえるような自分であること」も、意識しておくことは大事なことであるのがわかります。
コメント