理性とは、ものごとの道理を考えることができる力、道理にしたがって判断したり、行動したしたりするための、知的な能力のことをいいます。
人の性質や気質というのは、生まれ持っている部分も大きいので、生まれた時点で、「理性がの発揮が得意な人」、または「そうでない人」という差は、ある程度はついているといえます。
理性の発揮が得意ではないなら、その分、他の何かが得意であるのでしょう。たとえば、感情に基づく表現が上手であったり、情緒の豊かさであったり。
理性的とは、事実や道理にもとづく「客観的な判断」が大きく、感情的とは、自分だけの内的な感覚という「主観的な判断」が大きいということにもなりますね。
生まれ持った性質そのものに、どちらが正しいとか素晴らしいとかの優劣はありません。備わっているそのままが自分自身の本質です。(どちらが得意であっても、それぞれ)よい形であらわす生き方をしていけばいいです。
しかし、社会における、大人としての言動や、組織や集団でのふるまいとして、理性による、客観性を重視した判断が、当然のように求められる場面は多いものです。
うまくやれないと、人間関係がこじれてしまったり、または、自分の立ち位置や求められていることがつかめずに、どうふるまうといいのかわからなくなりストレスでいっぱいになるという形での、不調和がでることもあります。
そうなったときに、感情的、情緒的なタイプの人は、「感情を抑えることで、理性を発揮させよう」とすることが多いのですが、それはあまりうまくいかない方法なのです。。。
大きなそれをコントロールして押さえこめば、もう一方の理性のあらわれが大きくなるだろうと思ってしまうのでしょうけれど、
しかし、感情を抑えることでなされるのは、「感情の発揮を小さくすること」です。理性の発揮とは、感情を抑えることとは、思っているほど直結していないので、考え方の切り口を変えてみるほうがいいでしょう。
このように考えてみてください。
たとえば、「遊んでいばかりいるのを止める」とします。止めたことで、生まれる時間を、勉強に充てようとしないかぎり、「遊びを止めただけ」では勉強への取り組みはなされません。
それと同じで、感情を抑えただけでは理性は発揮されず、(遊びの時間を、勉強に充てるのと同じように)感情にふりわけていた思考やエネルギーを、理性のほうに注いでいく、という切り換えのプロセスが必要になるということです。
そして、それが自分の中で、習慣化していくようになるまで、意識的になっていくことで、理性的な思考パターンが身についていくようになります。
それが、理性を「育てていく」ということなのです。その上での発揮、となります。
感情を抑えるという行為だけでは、理性は育っていきませんから、発揮もなされません。
感情的、情緒的なタイプの人にとって、理性の思考回路というのは、使う機会が少ないために、あまり活性化していない、半分眠ったような状態です。
そちらを、目覚めさせて、起こしていくという取り組みが必要になるということです。
具体的には、冒頭のとおり、ものごとの道理に従った判断や思考を、意図的に行っていくことですね。そういう機会を重ねていくこと、そういう場面に身を置くこと、理性の思考、客観の判断が得意な人と関わりを増やしていくことも役立つでしょう。
そうした刺激によって、活性化がなされていき、それは習慣となりみについて、だんだんと自然に発揮できるくらいにまでなっていくでしょう。
元元の、得意分野かそうでないかの差はあるとはいっても、理性の回路が備わっていないわけではないですから。感情的、情緒的な人は、そちらの回路が大きくて頻繁につかわれているというだけですので、そちらのよいところはいかしつつも、もう一方の眠っているものを、使うことで活性化させていく取り組みをしていけばいいのですね。
少し時間は掛かりますが、取り組む価値がある大事なことです。
そして、どちらも活性化していくと、備わっている両方の回路のうち、その時々で、感情と理性、主観と客観を切り換えて、ふさわしいものをつかっていけるようになります。
感情を抑えるという形ではなく、理性を「育てる」という形で、バランスをとっていくことが、自分らしさをいかすと同時に、自分を成長させていくことができる取り組みだと思うのです。
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