自分を知るために「遠回り」をさせられることがあります。

他人のことは「自分との距離があるため客観視しやすい」です。「あの人はこういう点が素晴らしい」とか、「あの集団の中でAさんが一番目立っているな」とか。

自分のことは「自分との距離がないので客観視しにくい」です。「そうか、あの件はそうなっていたのか」と、突き放した感覚でとらえるだけの距離がないのでわかりにくいです。

階段をおりる黒い羽根のエンジェル

それでも、子どもの頃や若い頃は、親や先生や上司などの目上の人たちが、自分について語ってくれたり、指摘してくれたりする機会があるので、そこから自分を知ることができます。

けれど、社会に出て年齢を重ねていくほどに目上の人たちが少なくなり、指摘される機会も減ってしまいますね。

そういう時期に「自分を知るために、あえて自分らしくないところへと一時的に向かう」こととなり、そこからまた「自分らしいところへ戻る」という、

一見、遠回りになるプロセスを経て「自分を再確認させられる」ことがあります。

後から考えてみれば「どうしてあの時の自分は、あのような自分らしくないことをやってみたいと思ったのか不思議だ」と思うような、明らかに自分らしくない方向へわざわざ進んでしまうのです。

そして(当然のことながら)時間とともに「このことは、自分には合わない」とわかって、元へと戻っていくという、遠回りをして自分に気づかされるときは、

大きな成長をしていく流れの「少し前」ですね。

向かっていき、戻ってくるという振り幅が大きいほど、自分的にインパクトの大きい印象となって、以降の人生への反映もまた大きくなっていくからです。

こういう経験は、単独でみると時間と労力をロスしたように思えるけれど、

長い目でみれば、そうではないのでしょうね。比較から気づかされて、その後の人生に反映がなされていくのですから。

コメント

  1. 佐和子 より:

    おはようございます

    その通りでした、遠回りをした事で自分を見つめる機会が真剣な物となり
    その結果、自分では大きな成長が出来たと確信しています。

    50歳を過ぎてやっと心に余裕のようなものを感じれるようになりました、
    ここに行き着くまでがなんと長かった…

    • リカコ リカコ より:

      佐和子さま

      遠回りをしてみて、距離ができるからこそ自分がわかるので
      すべての経験を、これから先に反映させていけるようになりますね。