個性そのものは備わっている、個性をどうあらわすかは自分次第。

誰もが、たましいの領域から「備えて」きた、個性をもっています。これは生まれ持ったものなのです。

しかし、個性の「あらわれ方」については、生まれてから後の、その時々の状況や環境などが関わりますので、ここは、変えていくことができますし、自分しだいであると言えます。

個性は、元々「ある」もの。

たとえば、神経質な人が、人生の途中で楽天家になったりはしないように、本質というのは、変わらないものです。

成長の過程で、人は器が大きくなり、感性の幅も作られますから、そうした「広がりが作られる」ことはあっても、根本のところがまったく入れ替わることはないです。

どのような行動や生き方をしようとも、根底に流れ続ける川のように、私たちのたましいの個性は、その要素が在り続け、流れ続けていきます。

スピリチュアルに関心が深い方は、自分が人として霊として、どのように生きるかという、「自分の在り方」を考えることがあると思います。

その点を、たましいの観点を含めてとらえるならば、たましいの個性としての在り方、備えて生まれてきた本質をベースに、この人生で経験して身につけたことを含めた全体をとらえていくことが必要となるでしょう。

本質は、この世での人生において、きりはなされることも、入れ替わることもない、自分自身だからです。

個性の「あらわれ方」「あらわし方」は変えられる。

けれど、個性という本質の「あらわれ方」は、そのときによって変わりますし、自分次第で変えることもできます。

たとえば、神経質であることは備えているそのままでも、場面によって度合いを使い分けるとか、意図的にそれを出さないような工夫をすることはできます。または、神経質であることを、細かい配慮としていかすことも可能です。

そのあたりは、後天的に身につける経験による「知恵」で、使い分けていくことができます。

「備わっていること」と、「あらわれること(あらわすこと)」は、完全なイコールではないからです。

前者は変わらないけれども、後者は、変えられます。

増やすことも、強くすることも、自分次第でできます。

・・・と、文字で読むと、「そうなのか、前者は変わらないのかー」という気持ちになるかもしれませんが、これまでにもたびたび書いているように、何も制限も枠組みもないと、比較の基準がなくて、やりにくいものなのです。自由さがありすぎても、うまく動けないのです。

根本のところが「備わっている」からこそ、ある程度の自由さをもった「あらわし方」ができるので、この組み合わせは、学びのための最善が用意されていると思いますね。

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