スピリチュアルに関心がある方で、「楽しみは遠ざけて、もっと苦労して成長せねばならない。そうすべき」という、強い思いに縛られている人が結構いるものです。
たましいや霊性などの、内的なことに関心を示す方は、強い向上心を持っていることが多く、向上心ゆえに「修行的」な生き方と結びついてしまうことがあるようです。
そういう人は、もしも「楽に進める道」と「困難の多い道」があったら、迷わず後者を選びます。そのほうが修行的であり、身につくことが多いととらえるからです。
確かに、困難の多い経験から身につくことは深いとしても、そういう選択ばかりしていては、常に忙しく、慌ただしく、気持ちが休まらずに疲弊してしまいます。
楽しんではいけないという思いを抱いている方は、その人の価値基準として、「苦労すること」と、「自分の向上」が、セットになっているんですよね。
「苦労しない」という選択を自らとることは、「向上しない」を選んでいるに等しく、簡単なことや、楽しみを伴うことは、甘えのような、怠けのような感覚になって、大変さがあるほうに身を置いてしまいます。
確かに、大きな向上をしようと思えば、その過程には、苦しみや忍耐が伴うことは多いでしょう。
けれど、楽しみを得てしまえば学びが止まるということはないですし、苦しみだけが、向上に繋がるわけでもありません。
経験という学びは、いろいろな形があります。
自分に負荷を掛けることだけが、向上に繋がる唯一の道ではないということです。他にもたくさんの道があります。楽しみを伴う経験も、その経験だからこそわかる気づきはあり、比較対象として役立つことも多いです。
たくさんあるどの道も、自分が自由に選択できます。
そして、いつでも選び直すこともできます。思い込みで、自分が進める道を狭くしないことが大事です。
楽しみと向上は、矛盾はしません。苦労と向上も、必ずしもセットになっているわけではないです。結びつきは、いろいろなパターンがあります。
すべての経験から学びを得ることができます。
そのような視点をもって、周囲を見渡してみると、この世という場所にある選択肢や可能性は、自分が思っていたよりずっと多くて広いことに、簡単に気づくでしょう。
進める道は、たくさんあります。
今までと、違うパターンの経験をとりいれてみることは、自分の器に、幅と奥行きをあたえてくれます。
たとえば、一日の朝と夜という対比があること、寄せて返す波の動きがあること、そうした「違い」や「変化」は、それぞれの特徴を際立たせていますよね。
それと同じように、今までとは違う、楽しみの扱い方、緩みを取り入れることが、自分のそれまでしてきた頑張りを際立たせて、自分の中での対比がうまれて、気づきを大きく増やしてくれます。
コメント
素敵なメッセージをいつも楽しく読んでいます。
本当にありがとうございます。
いま新たな事を学ぶために勉強しているのですが
思うように進みません。
疲れて寝てしまったり、またその教科書を読んでも頭に入りません。
自分の精神が弛んでいる、甘えていると
思ってしまうのですが
それは、その勉強の向き、不向きの前に、
勉強のやり方が間違っているのでしょうか。
いつもお読みいただきありがとうございます☆
この記事で書いていることは、判断基準のうちの「価値基準」のほうですね。
何をもとにそう判断してしまうかという、主観の持ち方についてです。
ものごとが進まないとか、うまくいかないという「事柄としての事実」については、主観の件とは別に、なぜそうなるのかという原因を特定していくことが必要になると思われます。