他人のために、どこまでも犠牲的になってしまうのは。

「自分が、他人の犠牲になっていると安心する」人がいます。

表面的な意識では、そこまでの自覚はないのでしょうけれど、そうした感情や価値観があるため、自分を優先したり、自分が楽になったりすることを許可できずに、あえて「苦しい生き方をしてしまう」場合があります。

他人を優先するのが模範的、という思いがある。

こうした行いをとるタイプの方は、「自分よりも他人のことを優先して、人のために生きることこそが、模範的で理想的な正しい生き方である」という思いをもっています。

そのため、自分が楽しんだり喜んだりすることは、自分の思う「正しさ」から外れている認識になります。正しいことをやらずに、怠けているような気持ちになってしまうのです。

怠けていると、何か自分に不利益が与えられるのではという怖れが根底にあって、「正しいことをして、自分を安全圏に置きたい」気持ちが、拍車をかけてしまうのですね。

つまり、それは他人のためという表向きの理由があるけれども、実際には、自分が安心するために犠牲的な立場をあえて選んでいるということでもあるのです。

しかし、だんだんと苦しくなり大変になる。

動機がどのようなものであれ、人のために動くこと、尽くすことは、悪いことではないですよね。そうした姿勢は、どちらかといえば歓迎され尊敬されるものでしょうから、そのことが生み出す不調和に気づきにくいものです。

そうして自分を滅していることへの誇りもあるでしょうし、感謝されたり、相手に役立ったりする事実も重なっていけばますます、そうすることが望ましく正しいのだという認識が強くなるものです。

けれど、過ぎたるは猶及ばざるが如しという言葉もあるように、「人のために頑張る」ことは素晴らしくても、「どこまでも犠牲的になってしまう」のは、歪みを作ってしまいます。

こうした性質の人にとって、してあげることは安心なりますから、それほどの負担にはならないですが、しかし、常にそうした状況になって、「してあげ続ける」ことになれば、疲弊も大きくなります。

犠牲者にならなくても、安心はできるのだから。

そうした状況は、相手が依存してきているのではなく、自分がそうしたくて(安心するために)しているという事実に気づくことが大事です。

表面の行動だけをみれば、してあげている自分が被害者(犠牲者)で、相手が加害者のような構図に思えますが、実際は「自分をそうさせているのも、自分自身」です。

そのことに気づくのは、自分の中の怖れを認めることであり、相手が加害者ではないこともまた認めることになりますから苦しさがあります。

相手が加害者でないとなったら、自分が犠牲者になれず、それでは(当初の目的である)安心が得られません。

それはとても苦しいことなので、気づきたくない、見つめたくないことなのだけれども、どこかで自分のそうした複雑な思いに気づいて、「自分を苦しくさせない」生き方を、みずからがとっていくことが大事です。

安心を得るための、別の方法を探すチャレンジを。

人のためにとことん尽くす姿勢も一時的には役立つのです。頑張り方が身につきますし、人のためという姿勢も適度であれば素晴らしいことで、そうした経験の積み重ねは、自分という器を大きくします。

しかし、一時期だからこそいいのであり、次の段階に進んでいくためには、その段階に見合った姿勢に変えていくことも必要です。

犠牲ではない形で、安心を得るというとり組みにチャレンジしてみてください。

いきなりはその方法が見つからないかもしれませんが、時間を掛けていろいろ行ってみることです。

犠牲的であるほどに、人のために動くことができる強さをもつ人ですから、そのチャレンジはきっと成功することでしょう。

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