相手にしてあげたことは、別の人を介して戻ってくる場合も多々ある。

この世におけるスピリチュアルなしくみとして、自分がしたことは自分に返ってくる、自分のまいた種が自分の行く道に実るという、いわゆる「カルマの法則」があります。

そのしくみによって、この世のものごとは展開していきますので、自分だけが一方的にしてあげるばかりになることもないし、何もしていないのに、得られるだけということもありません。

ペガサスと女神が雪の上に

別の相手から、戻ってくることもある。

けれど、「そうはいっても、いつも自分は相手のために動く一方。感謝もされないし、お返しもない。

自分がどれほど大変な思いをして相手のために動いているかも伝わっていない。

してあげる負担ばかりが一方的に大きい」と思うことがあれば、ちょっと視点を変えてみていただきたいのです。

それは、してあげている相手から直接返ってきていないだけで、別のところから間接的に返ってきているのではないか、ということです。

つまり、Aさんにしてあげたことを、Aさんが自分に返してくれていなくても、その分に該当する何かが、Bさんから自分に返ってきているのでは、ということを改めて考えてみていただきたいのです。

「自分がしたことが、自分に戻る」しくみ。

カルマの法則は「自分がしたことが自分に返る」という大枠のしくみなので、「どこから、どのように」という狭い定義がありません。

してあげた相手から返してもらうことを、つい想定してしまいますし、そうしない相手に不満が募るものですが(その気持ちはわかりますが)

トータルでプラスマイナスを考えてみてください。

そうすると、ほとんどのケースで、実はそんなに一方的な負担にはなっていなくて、どこかから何かの形で、得られるものがあって、釣り合いは十分にとられているものです。

自分がしてあげた相手から、普通は返ってくるでしょうという解釈は、人間社会の礼儀におけるルールであって、それはスピリチュアルなルールではないので、ここをわけてとらえることです(気持ちの上で、不満になるのはわかりますが……)。

いろんな形で、実りを手にしている。

「自分だけがいつも、相手のために一生懸命に動いてばかりで、負担が多くて損をしている」と考えるくらいの人ならば、普段からとても行動的で積極性をもって動いているはずです。

おそらくは過去からずっとそうなので、過去にまいた種が実る分も含めれば、いろんな実りが、実は、手元にもたらされていることでしょう。

たとえば、自然と耳に入ってきた必要な情報、得たいと思っていた人の繋がり、行動するための機会が見つかることなど、得られていることはたくさんあるのではないでしょうか。

けれど、それらはそれらはどれも「してあげたことの、お返しっぽくない」のと、Aさんが関わっていないので、別口扱いでとらえてしまうけれど、

自分の人生を進ませることに役立っているのなら、

それは十分に「得ている」ことになります。

してあげた相手からの、直接のリターンにとらわれてしまうと、得られている価値に気づかなくなります。広くとらえていくことが大事です。

そうすると、Aさんへの不満は薄れていきますね。

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