カルマには、重ねた「行為のすべて」が該当します。

ときどき、「こんな出来事がありました。これは、過去のカルマが返ってきたのでしょうか?」というご質問をいただくことがあります。

カルマの法則は、スピリチュアリズムを理解していくための、基本的なしくみであり、そうした視点からの分析をしてみることで、深く自分を見つめることができます。

しかし、この法則の解釈のしかたには、注意が必要です。

カルマというのは「行いのすべて」が該当します。たくさんの出来事のうちの、特定の幾つかの出来事のみがカルマではないのです。

この点を誤解なさっている方が多いようです。

それは、カルマが返るという表現の使われ方が「あまり良くないほうの意味ばかりに、偏っているため」でしょうね。

カルマとは、行いのすべてが該当します。

カルマというのは、行動、言葉、想いのすべての総称です。私たちが、実際に行動したこと、発言したこと、頭の中で考えたことのすべてが当てはまります。

特定の条件に該当する事柄がカルマとなるので気を付けなければならない、それ以外はカルマとならないから安心、というような区分けではありません。

カルマという表現が使われる場合に、「過去の悪い行いが、今自分に降りかかってきて困難を引き起こしている。これは過去のカルマだ」というように、悪い意味で使われることが多いことから、狭い解釈で誤解されてしまうことが多いのですが、カルマとは、悪いことを指す言葉でもなければ、バチが当たるという意味でもありません。

良いことも悪いことも、どんなことも「行為のすべて」が、カルマという表現を使うならば、カルマなのです。

そもそも、行為のひとつひとつについて、良いとか悪いとかいう定義は、その判断をしている人の主観です。立場や見方が変われば、評価も定義も変わってしまう曖昧なものがほとんどですから、悪いことだけをカルマと仮に定義するとしても、これが悪いことだ、などという区分け自体が不可能ですね。

カルマの法則とは、原因と結果の「しくみ」。

私達が生きていく中で、日々いろんな行為が積み重なっていきます。それらが、いつか何かの形で、結果を伴って自分に返ってくるようになっている、というスピリチュアルな「しくみ」を「カルマの法則」といいます。

「原因と結果の法則」とか「因果律」などという表現をする方もいます。これらは、(スピリチュアリズムに基づいた解釈をしているならば)ほぼ同じことです。

この世で展開するできごとのすべては、この、カルマの法則により成り立っています。

カルマは、「しくみ」として作用の仕方を理解すること。

すべての行為が、カルマだと考えるならば、特定の行為の結果だけを抜き出して、「これは、カルマなのか?」と考えることは、砂利道の中で、石ころをひとつだけ抜き出して、「これは、石だろうか?」と、気にしているのと同じです。

手にしているのは確かに石だけれども、足元には無数の石があるわけで・・・、一つだけを抜き出して問うても、疑問の抱き方の視点がちょっとずれていませんか、ということになると思うのです。

カルマについての理解も、それと同じで、一つか二つの行動や結果を抜き出して「これはカルマなのか?」とか、「これをしたら、カルマになるのか?」と考えてしまうと、視野が狭くなってしまいますし、解釈においても誤解が生じてしまう場合もあるでしょう。

カルマという表現を使うならば、すべてがカルマに該当します。

この世での、すべての行為が原因となり、いつか必ず何かの結果となって展開する、というのが、原因と結果が結びつくしくみである「カルマの法則」です。

日々、無数の行為が積みかさねられていく日常において、あまりそうした考え方で細部にこだわり過ぎても、複雑に意味付けをしてしまうだけとなり、自分を成長させることにも、問題点の改善や解決にも繋がっていきません。

カルマの法則を理解していくことは、スピリチュアリズムにおいては基本ではありますが、無数にあるものの中のひとつかふたつにこだわってしまうと、全体に共通するしくみが理解できなくなります。偏らないように意識して「全体」のしくみとして、とらえていくようにしましょう。

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