スピリチュアルへの理解度は、くり返しにより「深まる」もの。

この人生において、スピリチュアリズムへの理解度は、競技場を周回するトラックレースのように「くり返しながら、深まっていく」ものです。

最初は、刺激が大きく印象深くなるもの。

どんなことにも言えますが、今まで知らなかったことや意識為ていなかったことに触れるにはとても新鮮で、「こういうことがあったのか!」「なんてすごいんだろう!」という印象の強さがうまれるものです。

スピリチュアリズムという、神秘的な要素のあるものに関してはなおのこと、そうした感覚になりやすいものです。

しかし、どんなことでも「慣れ」とともに、新鮮さは薄れます。「未知」が「既知」になるのですから当然ですね。

スピリチュアルな事柄も同様で、理解が深まるほどに、納得はふえますし、知恵をいかせる自分になることができますが、その分、当初のような新鮮さは薄れてしまいます。「不思議だ」と思っていたものに対して、「そうういうものだ」とわかりますし、「そうなっているものなんだ」という前提でとらえていくようになるからです。

常に新鮮な気づきに遭遇するのは、ほんの入り口、まだ一周を回っていない途中の時期のみで、二周目以降は、そんなに刺激はないものだということを覚えておきましょう。

なぜなら、新しいものばかりを求めていてば、(実際にはそのようには運ばないので)同じ競技場を回るモチベーションが保てなくなるからです。

繰り返すから、気づくことができます。

同じことをくり返すからこそ、以前の経験と比較したり、見落としていたものに気づく余裕が生まれたりして、深まりがでるのです。

一度は「わかった」と思ったことも、「わかっていなかった」ことに気づかされたり、さらに深い理解へと移り変わり、置き換わっていきます。

スピリチュアルな事柄の理解は、同じような繰り返しをして、深みを増して重ねていくものなのです。進むほどに気づきが深まり、認識も置き換わっていきます。

ただひとつの、「完成された回答」のみを探し求めてしまうと、どの瞬間にも答えはないと感じられて、どこまで進んでも納得できることがないでしょう。

直線の道ではないから、深まりがあります。

たとえば、短距離走のように、同じ道を通らずに真っ直ぐ走っておわってしまうのでは、「気づき」や「発見」はあるとしても、重なる「深まり」がありません。

競技場を3周目でやっと気づくことがあり、それを踏まえて、さらなる4周目の深みが生まれて・・・、というくり返しが、理解に繋がるのですね。

私たち人間とは、そう簡単には学ばない生き物ですから、一度だけの経験では気づかず、身につかず、何度も同じようなことを繰り返してやっと、何回目かの経験で「はっと気づく」のです。

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