「思いのエネルギーを放つ強さ(念力の強さ)」と「思考力の高さ」との違い。

頭の中や心の中で「思う」ことも、「発言」や「行動」と同じように、エネルギーとして放たれて作用していくことは、スピリチュアルに関心をお持ちの方はご存じの知識だと思います。

そうした「思うという行為から放たれるエネルギー」が、平均より強い人がいます。「念力が強い」という言い方で表現されることもあります。

このことを短い言葉でいうと「思う力の放ちが強い」となり、そうすると「思考力が高い」ことと字面としても似ているためか、解釈が混ざってしまったり、区分けが曖昧になって、よくわからなくなってしまう方も少なくないようです。

前者は「思うエネルギーが放たれる強さが、優れていること」で、後者は「考えや思いを巡らせて、何らかの方法などを模索する力が優れていること」ですから、この二つは別の事柄をあらわしています。

似ている部分もある。

両者は、似ている部分もあります。身体の動きを伴った行動によって、何かをあらわしたり動かしたりするのではなく、「内的なエネルギーの使い方をしている」という点です。

つまり、手を使って作業をしたり、脚をつかって移動したりすることではなく、自分の頭や心の中という、内側での行為というエネルギーの使い方になるところが共通しています。

エネルギーが外へ向くか、内へ向くか。

違っているのは、エネルギーが向かう方向です。

「思うエネルギーが放たれる強さが、優れている場合」は、「放つ力」ですから、対象がどのようなことであれ、自分からエネルギーが外に向かって(特定の対象に向かってという意味とは限らず)放たれていきます。

「考えや思いを巡らせて、何らかの方法などを模索する力が優れている場合」は、「思考力の高さ」ですから、深く思考を重ねるときほど、そのエネルギーの向かう先は、自分の内側となっていくことが多いものです。

つまり、「思う力が強い場合」は、どちらかといえば、外に向かってアピールするとか、作用させるとか、何かをあらわすとかの方向にいかされることが多く、

「思考力が高い場合」は、自分の頭や心の中での、思考という精神活動が洗練されているとか、重ねられるスピードが早いとか深いとかの方向に、いかされることが多くなります。

どちらかが高いと、もう一方も底上げはされる。

どちらも、「頭や心の中で思うという行為に伴うエネルギーが、平均よりも大きい」という共通点があります。

ですが、備えている性質との兼ね合いで、使われ方やあらわれ方としての違いがでてきて、このような区分けになるようです。

元となるエネルギーが同じようなものであり、使われ方やあらわれ方が違うだけなので、お互いに、幾らかの連動がみられ、「どちらが一方が強いと、もう一方も、他方の強さで引き上げられていく」こともわりと多いですね。

そのため(他方も引き上げられていて、どちらも高いレベルになっていると)、この区分けがあまりはっきりつかないので、説明をする側も、理解をする側も、いろいろ紛らわしいのですけれども(^_^;)笑。

 

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