私たちにとって、スピリチュアリズムという「霊的なしくみ」を理解する意義とは、それらの成り立ちから、この世での学びを深いものとするためです。
自分自身や他人を理解したり、社会という場所でやっていくための知恵をつかんだりしながら、「この人生という、与えられている時間を、いかに充実したものとしていくか」に取り組むための、指針となるのがスピリチュアリズムです。
スピリチュアリズム不変のもの。人は成長という変化をするもの。
霊的なしくみそのものは、不変です。しかし、解釈の仕方や理解の深さは、その時点でのそのときのものであり、変化していきます。
なぜなら、この世には「時間」があり、人は変化するからです。(ちなみに、あの世には、時間が存在しません)。
以前にはわからなかったことがわかるようになったり、頭だけの理解だったものが実感を伴って深くわかるようになったり、そうした「過去から今に至るまでに、移り変わりがある」ことも、この世だからこそ経験できる学びです。
スピリチュアリズムそのものはいつも変わらず、シンプルにそこに在り、自分が変化することに比例して、受け取り方が変わっていくものなのです。
その構図からも、(変化するのは、こちらの側であるという)あの世とこの世の違いがわかります。
そういうことも含めての、学びなんですね。
人としての成長が、たましいの成長となる。
自分の、「人としての成長」をぬきに、たましいという単体を成長させることはできません。また、たましいという観点は、あえて意識しなくても問題はないです。自分が成長すれば、それがたましいの成長になっていくからです。
そうした関連性を説明しているものが、スピリチュアリズムです。
つまり、この人生を生きる上で、スピリチュアリズムというものを知らなくても、学びは進んでいきますし、成長もなされていきます。それで何の問題もありません。
ただ、知っているほうが学びが深くなることが多いですし、また、知っていることで学びが促進するタイプの人がいるということです。そういう人が、スピリチュアリズムに関心をもつようになります(ですから、全員が関心がわかないこともまた、当然のことなのです)。
スピリチュアリズムを知らない人や、無関心な人が、知っている人より劣っているということはまったくなく、そういう人には、別の指針となる何かがあって、「そうした何かの目的で人生を過ごす学びに挑んでいる」のですから、それもまた、その人のたましいの目的に合っている生き方だということです。
その人にもっとも合う形で、今回の人生の学びは進んでいくようになっています。
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