与えられた「分」というもの。

天分とか、分相応という言葉につかわれる「分」とは、与えられた部分とか、わけまえとか、なすべきつとめ、などの意味をもちます。

この世の人生とは、「与えられた「分」を生きる時間」でもありますね。

備えてきた性質や能力を発揮して、なすべきことをしていき、「分」を生きるようになっている。

日常の中で、「こんなことをするのは面倒だな」とか、「いつまで、同じ状況が続いてしまうのだろう」と嫌になることはたくさんあるけれど、それが、与えられた「分」と考えれば、認識は変わっていくのではないでしょうか。

やるべきことは、やるようになっていて、

なすべきつとめは、はたすようになっている、

そうして、「自分」という人生の時間が構成されていると、とらえていけば、

やるべきことは、「やろう」と思え、

なすべきつとめは、「はたしていこう」と、

意欲的な姿勢で、与えられた分を生きることが、できるようになると思います。

コメント

  1. miさん より:

    「意欲的な姿勢で与えられた分を生きる」このようにいられることがとても大切だなと感じました。
    これをしようと自分で決めたのに、人と比べてしまったり、うまくいかない事ばかりに目がいってしまったり、立ち止まって「だって~だし~だし」と言い訳の思考を続けたり、そういうパターンになってしまう事がよくあります。
    そしてそのようなマイナスの方向に片寄っている時には、そちらにひっぱられてプラスの発想も全然出来なくなるように思います。
    でも、こちらのブログで教えて頂いた通り「分として、自分のなすべき事をなす」と意識を切り替えれば結果が全然違うように思います。
    自分がすると決めた事も、目の前にある問題も、すべてひっくるめて大切なものととらえる事が出来、意欲的に真摯に向き合いこなしていく事が出来るようになると思います。「人との比較や、今の足らない自分」に振り回されることなく、まっすぐ、進んで行けるヒントを頂いたような気が致します。ありがとうございました。

    • リカコ リカコ より:

      mi様

      自分に与えられている「分」というものが、どのような性質で、どのような方向に活かすことができ、どのくらいの量があるのかは、

      いろいろ模索してみて、時間をかけて、つかんでいけるものなのだと思います。

      それがわかるまでの間、思い通りにいかないこともあるかもしれませんが、逆に、思っていた以上のことができる自分に気づいたりもするので、模索も必要なプロセスなのでしょうね。