スピリチュアリズムの観点からすれば、この人生とは、たましいを成長させる学びの経験で、この世とは、学びのための場所となります。
私たちは、たましいの領域(グループソウル)から、「自分を構成する性質や要素」とともに、「この人生で経験すべき課題」を備えて生まれてきます。
私たちの表面的な意識では、たましいの領域の全容がわかるようにはなっていないので、自分がどんな課題をもってきているのかをダイレクトに知ることはできませんが、
過去の経験を振り返ってみると、その一部分を推察することができるものです。
「起こること」と「そうしたくなること」と。
たましいの学びや課題というものを、どのように定義するか、そのとらえかたにもよるでしょうけれど、
「この人生で、経験することになっている事柄」
「この経験をしようと、決めてきたこと」
を、課題としてとらえるならば、
それらは、何度もくり返し起こることが多いでしょう。
受動的に、そういう経験が「起こる」というパターンです。
くり返すことで、経験からわかることが増えますし、比較から違いに気づくこともあるでしょうし、何度も経験してみて、自分の中にそのことの記憶や印象がしっかりと刻まれていくようになるからです。
または、何度も繰り返し、やりたくなることも多いでしょう。
能動的に、自分が「そうしたくなり行動する」というパターンです。
自分の人間的な意識や感情は、備えている本質的な要素が価値観の基準となってつくられますから、学びの要素として備えてきている対象には、
何度でも自分のセンサーが反応して、関心をひかれ続けることとなり、
達成しても、それをやめようと思わない、飽きたとしても、やめようとは思わない、そうした感覚が生じることはあるものです。
なぜか、いつも物事がそうなっていく、
なぜか、いつも自分がそうしたくなる、
この繰り返しを眺めてみると、たましいの課題を一部分、知ることができるでしょう。
課題のあらわれは、このパターンばかりではないけれど、表面的な意識のところに比較的近いものは、こうした把握が可能です。
この世には、時間という変化のしくみがあるので、ほとんどの事柄は時間とともに変化して流れ去っていくものです。
しかし、そのしくみの中で、何度も同じ要素がくりかえされることがあるならそれは、(時間というしくみに限定されない)たましいの領域から備えてきた課題を、経験しているのだと考えられます。
コメント
忘れていたのに連絡が来て思い出し、忘れさせて貰えない。行き違いを繰り返しトラブルになり辛い気持ちになる。こういうことは前世に人に辛い目に合わせてしまったとか、そういうカルマを持っているためカルマの清算のため同じことばかりが同じ人と繰り返すことになるのでしょうか?
なぜか物事がそうなっていく。自分もそうしたくなるに。該当するようです。逃げてはいけない魂の課題があるのかと。
コメントでお答えできるのは、ブログのサイドバーに記載のとおり「一般的なこと」への回答のみとなります。個人的な事柄への回答をひかえているのは、それは、前後の事情がわからないままの、数行だけのやりとりだけでは、その内容をしっかりお伝えすることはできないからです。
お書きになっている件が、この記事でお伝えしている繰り返しによるものなのかは、(この情報のみでは)何とも言えません。そうかもしれないし、そうではないかもしれない、としか申し上げられないですね。
また、私は、この記事内でも、おそらくブログの他の記事でも「逃げてはいけない○○」などという見解は示していないと思います。
たましいの課題となることの、「繰り返し」にもいろいろあって、
同じ「事柄」の繰り返しだけでなく、「自分が(実際はそうではないのに)そうだと思ってしまう、思い込みをくり返してしまう」というカルマのパターンもありますし、(今回が該当するという意味ではないです。一般論として、そういうケースもありうるということ)
いずれにしても、コメントで回答出来る範囲は一般論のみなので、今回のコメントへの明確な答えは出来かねること、ご理解をいただきますようお願いいたします。
「思い込みをくり返してしまう」というカルマのパターン
そんな事もあるのですね…
確かに登場人物は違っても
同じショックを受けて悲しくなる出来事があります…
何でも「私のせいで?私が悪いのか…」って思ってしまいます。
思考のパターンはなかなか
自覚しにくいですね。
自分の思考も、発言も、行動も、自分のそれが「普通」であると認識してしまうものなので、
思考のパターンだけでなく、発言のパターンも、行動のパターンも、
それをつかみとろうと意識的にならない限りは、
通常は、自覚はしにくいものだろうと思います。
しかし、それがカルマ的なものだと結びつけてとらえることはなくても、
自分のクセとか、傾向には気づくことはできると思いますし、
気づかされる出来事が何度も重なり、自分に不都合なことがあれば
それを変えようとしていくでしょうから、そうして成長という変化が行われていくので
あえて「カルマ」というとらえ方をしなくても、それはそれでいいのだと思います。