人生の中でときどき、何かに突き動かされるように、または、そうなるべくしてなっているように、ある道をひたすら進む形がつくられることがあります。
そして、ある段階まで到達したときに振り返ってみれば、一連の動きは、自分の意思でとったようでも、自分の意思以外の力が働いていたようでもあり、
スピリチュアルな知識がある人ならば、「この道を進むようにうながされて、導かれたのかなあ」などという印象をもつこともあると思います。
実際のところ、その道を進むように「仕向けられる」ことはあり得ます。
たましいが決めてきている学びに自分から向かう場合もあれば、霊界からの働きかけで、より力を出せるような道へ方向転換させられる場合もありますからね。
どちらにしても「一生懸命にとりくむ過程を経て、ある段階に至ってから」振り返ってそう思えるようになるケースが大部分ですね。
その過程を進んでいる最中にはわからないし、ましてや、動き出す前からわかることも難しいです。
頑張った結果として、後付けのように思ったり、わかったりするというわかり方になります。
スピリチュアルに関心があり、導かれる道を進みたいと考え過ぎてしまう人は、「もしもふさわしくない道を選んでしまったら」と不安になって、なかなか動き出せないことがあります。
しかし導きが与えられるのならば、違う道をいったとしても途中で気づかされるはずであり、与えられなかったらどうするのかが不安なのであれば、それは導きがあると思っていないことになり笑、
そこがあやふやで動き出せないならば、導きを得たいというより、見えない力に依存してしまっているのかもしれません。
自分の自力が基本であるとわかっていれば、そういう不安にとらわれることはなく、導きが与えられようと、仮にそうでなかろうと、自分がそれをつかみとって進んでいけばたどり着くところは同じ場所だと思えるから、進んでいくことができるのです。
そういう状態にあるとき、霊的なサポートの力が、大きく与えられていくこととなり、そのあらわれが「うながされるような、導かれるような」順行の力が揃っていく形として整うのでしょう。
何かに対して力を掛けていくこと、一生懸命になってみる経験は、いろいろなことに気づかせてくれます。
いかにもそれっぽい動きではなくても、たとえば与えられた仕事の業務であっても、生活の中での動きであっても、ライフワーク的な活動であっても、
力を込めた動きを続けてみれば、何かしら得られるものがあったり、わかるものがあったりして、自分が進む人生の道は作られていき、それは、たましいの学びの道と、重なっていくということではないでしょうか。
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