同じ生活環境にいて、同じような行動範囲にいるのに、他の人たちと比べて「自分にだけ、同じ事柄がやたらと起こる」ことがあるものです。
人生に必要なことが起こるようになていますから、くり返しの経験の中で、わかることが増えていき、学ばされて気づきを得ていくケースは多いです。
たとえば「望まないのにリーダー役になる経験を重ねて、人をまとめるために必要なことを学んだ」などですね。
そのように、自分が成長していく要素があるなら出来事の意味や意義をみつけやすいですが、中には、そういう要素があるとは思えないケースも結構あります。
そういうときは、その経験に、学びとかメッセージ性があるというよりは、経験すること自体が学びなのかもしれません。
この世で起こるできごとは、広い意味では何かの意味があるとしても、特に気づきなどのメッセージ性はないこともあるので、
「自分が何かに気づくべきなのでは」「サインを送られているのか?」などと、あまり複雑に考えなくてもいいのだと思います。
私の知人のケースを2つ書いてみます。
Aさん(女性)は「どこにいっても外国人に道を聞かれる」とか、「困っている外国人を見つけてしまって手伝うことになる」そうです。
仕事柄、英語はできる人なのですが、英語圏とは限らずとにかくいろいろな国の人から、日本国内だけでなく外国にいるときでも、なぜか道を聞かれるのだと。
英語を話せるれど、自分からフレンドリーな雰囲気で旅行者に関わっていくような方ではないので、話しかけやすさからその現象が起こっているわけではないようです。そういうめぐりあわせになるのは不思議ですよね。
もうひとつ、Bさん(男性)は「街中で、自然に周囲に外国人が集まってくる」そうです。話しかけられたりはしないそうです。
けれどなぜか、自分の近くに外国人が位置していて、お店にいけば席が近いとか、人通りの多いところを歩いていると四方に外国人がいるという状況になることが多いのだと。
先日は、スーパー銭湯にいったところ「たくさんの人がいて、たくさん場所があいているのに、なぜか、オレのまわりだけがテルマエロマエだった」と笑。
Aさんのケースは、そうして人を助けてあげる役割があるとか、その経験が仕事に役立つとか、広い意味でいえば何かつながりがありそうに、思えなくもないですが、
Bさんのケースは、どちら側からも、助けたり、助けられたりしていませんし、ただ近くにいる以上の関わりは作られていないので、気づくべき要素などもあまりなさそうに思えます。
これは、経験するそれ自体に意味があって、それがどんな目的とか、気づきが云々という「人の感性の領域での意味づけ」をするようなこととはきっと別なのでしょうね。
ただ一度だけの機会なら、経験のひとつとして刻まれるだけなのですが、同じようなことが何度も自分にだけ起こると、そこに何か意味をもたせたくなるし、気づかなければならない何かがありそうに思えてしまいますが、
経験をする必要はあっても、特に気づくべき意味はない、というケースもあるのでしょうね。この二人を比べるとそう思います。
コメント
ありますあります、道をよく尋ねられます。
他にも、都内ではバスのこと、駅にいたら駐輪場のことなどいろいろ聞かれます。
決してとっつきやすいタイプではないですし、不思議です。
でも、そういえば最近はなくなったかも…
これまた不思議です。
Mさま
道をたずねられること自体は、他の人にも起こることですが、
回数があまりに多いのであれば、そこにご自身が経験する要素があったり、
引きあうものがあったりするのかもしれませんね。