前世と今世のつながりとは、人それぞれ違いがあります。
前世での経験を、今世でいかして活躍するケースもあれば、前世で経験したことにはあえて関わりを持たずに、新たな事柄に挑んでいくケースもあります。
よって、今回お伝えする内容も「そういうパターンもある」という一例としてとらえてください。同じような前世の経験があるとしても、今世への反映の仕方はひとそれぞれ違いがありますから。
前世で、とても困難な状況に立ち向かい続けているとか、緊張感が続く状況におかれているなど「気を抜けず、努力をし続けなければならない」生き方をしてきた経験をもっていると、
今世では、まったく別の環境であるのに「前世の続きのような生き方」をしていまい、わざわざ困難なほうに進んで緊張感を自分に与え続けてしまうケースがあります。
真面目に頑張っていた人ほど、「そのため自分を守ることができた」というたましいの記憶が強く残っているので、そのやり方をいかそうとしますし、力を抜いた生き方もあるという考え方になれません。
「そうしなければならない思い込み」があるのと同時に、「そうすることが自分を守るという安心にもなる」ので、二重の縛りが掛かって、わざわざ大変なほうに進んで向かっていってしまいます。
ある意味、頑張ることができる力が身についているのは、素晴らしいですよね。ですが、頑張らずにいられないのは、自分が大変になりますし、ときには自分と関わりをもつ周囲をもまきこんでしまうこともあります。
おそらく、前世ではそういう姿勢でいることは自分のためにもなり、周囲からも好まれたのではないかと推測できます(自由さのない時代であり、人力で何でもやらなければならない時代でもあったでしょうから)。
ですが、今世のこの時代で、同じような姿勢で進んでいこうとすれば、うまくいくことばかりではなく、なかなか皆との足並みもそろわず、意識の方向もそろわず、どこか不調和が生まれたり、思うような形にならないことも出てきてしまうと思われます。
こういうケースは、「そうなって気づくことが、今世の学びのひとつに含まれている」のでしょう。うまくいくための、行いのパターンはひとつではないのだと。状況にあわせていろいろなバリエーションがあるのだと。
ときに力を抜いても問題ないことも、むしろ力を抜くほうがうまくいくことも、いろいろあるし、いろいろあっていいのだと。行動してみて経験から気づいていくのだと思います。
前世の自分と今世の自分が、同じ要素を前面にだして同じようなふるまいをしていても、時代と国と環境が変われば、そのあらわれも受けとめも、違ったものになってきます。
今世の自分という表面の意識では、前世が云々というところまでを把握はしていなくても、こういうケースは不思議となんとなく「わかる」ことも多いようですね。
そうした、前世から継続している気づきの経験に、この時代という環境はとても適しています。
なぜなら、やりすぎて不調和がでるといっても、しれている範囲のことで、極端な失敗にはなりにくいからです。
安全が確保されている中で、気づき学ぶために、そういう環境を「選んで生まれてきている」ということなのでしょう。
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