前世の経験値が反映して、学びの段階がつくられる。

人は何度もうまれかわって、たましいを磨くための学びをしています。今の人生より以前の経験を前世といい、それらの経験値はたましいの大元である「グループソウル」という領域に刻まれています。

今世という人生を決めて生まれてくるときに、たましいの経験値から必要な要素を持ち越してくるしくみです。

生まれた時点で、横ならびのゼロからのスタートにはならず、それぞれの個性がある程度は備わった状態から、今世の学びがスタートしていくことになります。

幻想の花と妖精

前世の経験をふまえた、今世の学びがある。

皆が横並びではないのは、それまでの前世という経験値が違っていることと、そこから関連する「今世での学びの題材もそれぞれ違っている」からです。

前世の経験値が多ければ、備わっているものも多くて幅広いので、それらを「いかす」学びが発生してきます。メリットもあるでしょうけれど「抱えるものも多くなる」ものです。

前世の経験地が少なければ、備わっているもの幅が狭いので、どちらかといえば「発揮していかす」より「身につける」方向の学びが多くなるかもしれませんね。

この世での、時期にたとえるなら。

あの世という時間の経過がないところで、たましいや霊という形がないものの存在を言葉で説明するのはとても難しいけれど、便宜上、この世的な時間の経過の変化に置き換えてたとえるなら、以下のようなことになります。

★まだ幼い時期

人が、まだ小さい頃は、ある種の万能感のようなものがあり、比較から違いを計ることはできず、自分の認識したことに感情や思考をからめて言語化することもできませんよね。それらは経験から培われるものなので、比較対象が自分の中にないからです。

たましいがこの段階にいる人であれば、この世的な経験が少ないゆえの、たましいの万能感が大きく自分を満たすでしょう。あまり自分を疑ったり心配になったりすることもなく、思考や感情を絡めた知的な洞察もそれほど重要視せずに、備えているそのままをあらわした生き方をしたくなると思います。

★まだ若い時期

人が成長して、思春期あたりになってくれば、自分と他人との違いが気になってきます。他人と同じにならない自分はおかしいのではと思ったり、逆に、自分は他人とは違うというプライドがでてきて、自分のほうが優れているとアピールをしたくなったりもします。

たましいがこの段階にいる人であれば、この世的な経験がまあまあ積み重なってきて、比較対象となる材料があり、「比較からわかる」という感覚が優れていきます。わかることが増えますし、また、相対的に「自分は何がわからないかがわかる」ようにもなります。

★大人の時期

人がさらに成長して、大人になっていけば、何においてもそれまでの人生経験が財産となり、思考にも行動にもそれが反映していくようになります。人それぞれであることを受け入れていけるようにもなります。自分はもっとこうしたいのにという感情があるとしても、それはそれであり、事実は事実とわけていけるようになります。「違いがある状態で過ごす時間の長さ」によって、違いがあっていいと思える経験、むしろ違いがあるから役立つという経験を重ねていくことで、解釈に深さと幅ができるからでしょうね。

たましいがこの段階にいる人であれば、前世と今世の経験値の多さから「たましいが知っていることや、慣れていることが多い」ため、すべてに対して「うけとめていける度量が広い人」になります。衝動につきうごかされることは少なく、意識的にうごいていこうとするようになります。または、そのような自分であろうとします。

それぞれにふさわしい、学びがある。

まだ、自分の中に万能感のようなものが勝っていて、この世的な感覚を(いい意味も含めて)備えていない、たましいの経験値が「フレッシュで若い人」は、そのような生き方をすることが今世の学びなのでしょう。

思春期くらいの段階にあり、この世的な感覚が増えている途中である、たましいの経験値が「成長の真っ最中の人」は、違いを経験していくことで知恵を増やし、ときに違いによって悩み迷うことも含めて「自」「他」のどちらも理解していくことが今世の学びに含まれています。

たましいの経験値が「老成している人」は、備わっているものをどういかして人生を過ごすかということが学びに含まれていくでしょう。もちろん、たましいが大人であっても、個人的な成長という学びがおわることはないのだけれども、自分を磨くという方向だけでは、かみあわないことが多くなり、外へ向けて「いかす」「あらわす」ことが、個人的な学びに重なっていくことが多くなります。

学びの段階は、それぞれ違いがあります。

たましいがまだ幼い段階の人に、老成している人のような度量をもって衝動的な動きを止めろといっても難しいでしょう。

逆に、成長の真っ最中の人が、幼い段階の人をみて「気楽でいいな。ああなりたい」と思っても、「わかっている」のだから、そういう方向には進んでいけないものなのです。

誰もが成長という山をのぼっている。

この人生の経験とは、たましいの成長という「山をのぼっている」ようなものですね。現時点での位置している場所によって、見える景色が変わっていきます。

この世とはそうした変化や、違いをあじわっていける学びの場所です。

いろいろな人がいて、いろいろな関わりがあることで、まだ見ぬ景色を教えてもらえたり、過ぎた経験で忘れてしまっている景色を、思い出させてもらったり、学びを助け合うことができます。

そのように考えると、自分の人生についても、他人と関わりをもたなければならない日々の生活の場面にも、違う側面からの理解を加えていけるようになるのではないでしょうか。

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