他人という「自分を映し出してくれる相手」、「違いがあって、比較ができる対象」が存在しなければ、私たちは、意外と自分を知ることができないものです。
それぞれが、他人を通して、自分との比較から、何かを思ったり、気づいたりを繰り返し、自分を成長させていくことができるのが、この世という学びの場所です。
そういう意味で、人間関係は自分にとって必要なものではあるけれど、ときに難しく、苦しさを感じさせるものでもあります。自分と違う要素は、その相手との関係にストレスを感じさせます。
たとえば、高い能力をもつ人と、自分を比較して落ち込んだり、性格が違う人と気持ちがすれ違ってストレスになったり。
家族、学校、職場、世の中、すべての場所で、必ず、人間関係が存在して、違いによる苦しみを経験することになります。
「学びのため」「そうして、自分が成長するため」と、頭では分かっていても、人との違い、というのは、かなりストレスになりますよね。
意見が合わない上司や親、好みが一致しないパートナー、感情的な友人達、自分とは違う感性の相手と、人間関係をつくっていくことは本当に大変です。
けれど、もしも「世の中の全員が、同じ感覚の人だったら」、すべての人達が、自分とまったく同じ個性の持ち主だったら、どのような生活になるでしょうか。
会社に行けば、部長も、課長も、同僚も、全員が、自分と同じPCスキルで、自分と同じ業務遂行能力だったとしたら、どうでしょう。
テレビを付ければ、自分と同じ声で、同じくらいの歌唱力の歌手が歌っていて、飲食店での食事も、シェフの料理の腕が自分と同じですから、自宅で作って食べるのと代わり映えしない内容だったら。
買い物にいけば、仕入れる人の感性が自分と同じなので、目新しいものも何もなく・・・、推理小説を読んでも、自分と同じ文章力の人が書いているから、トリックがすぐに分かってしまうなら、買いたくならないし、読みたくならないですよね。
こういう生活だったら、きっと「違いという刺激がほしくなる」のではないでしょうか。
つまり、人との違いが、苦しみを作り出すこともあるけれど、違いがあるからこそ、刺激も楽しみも得られているという、両面があるのです。
苦しいことは、印象深くなるために、「違いによる、苦しみ」のほうだけが意識されるだけであり、「違いによる、楽しみ」も、私たちは受け取っています。
飲食店で、予想を超える美味しい料理を食べられたり、自分よりもずっと歌の上手い歌手の声を楽しんだり、買い物にいけば、目新しい品物があり、頭の良い作家が、複雑に作り上げたトリックを楽しみながら小説を読んだり・・・、そういう過ごし方ができるのは、「それぞれ、個性の違いがあるから」です。
ですから、人づきあいで苦しみを感じた時には、このことを思い出せばいいですよね。
違いからの苦しみのほうが目立ちやすいだけで、実は、違いがあるからこそ、いろんな楽しみもあり、たくさんの刺激も得られているのだと。
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