スピリチュアリズムでは、人とは「肉体をもった霊的な存在である」というとらえ方をします。
一般的に、霊といえば「幽霊」や「守護霊」などを思い浮かべるのは、肉体を持っていない存在が霊であるという認識があるためなのでしょうが、
実は、私たちも「肉体を持っている霊」なのです。
私たちも霊であるなら、この人生のさまざまな事柄に「霊的な要素」が関連してくるという解釈はそう不自然ではないはずです。
霊的な要素は形がないので「これがそうだ」「これが該当する」と明確に示しにくく認識は難しいのですが、私たちの人生には、さまざまな霊的な要素が関わっていて、そのひとつが「守護霊という導き役とのつながり」です。
私たちは、この人生から学んでいる。
スピリチュアル的な解釈で、この人生の意味や意義を語るとすれば「たましいを磨くための学びの機会」です。
霊的な存在である私たちは、たまいを磨く学びのために、肉体という物質を伴ってこの世にやってきて、数十年という人生の時間を過ごします。
現実的な事柄でいえば、この世には血縁というご縁の家族の元にうまれて、他人という存在と関わり、さまざまなできごとを経験していく中で、人としての成長がなされていきます。
人としての成長が、そのまま、霊としての成長です。
人生という長い時間の、あらゆるできごとを通して、人として、霊としての成長がなされていくように、守護霊という導き役が見守ってくれています。
私たちは、たったひとりでこの学びに挑んでいるのではなく、霊的にみればたくさんの存在が、関わりをもってくれているのです。
私たちの自力を尊重して、導いてくれる存在。
ここ十数年ほどの間に、守護霊という言葉は広く知られるようになりました。
しかし「守護霊」という漢字が与える印象によって、ふりかかる災難を防いでくれたり、願いを叶えて守ってくれる存在であるかのような誤解も生じているように思います。
「まもる」という漢字が並ぶことからそのイメージが強調されてしまうのでしょうけれど、守護霊の役割りとは「この人生という学びの機会を通して、成長していくことを見守り導く」というサポート役です。
守護霊は、霊的な高い見地からたくさんのことを見渡すことができますが、あれをしろ、これをするなと指示をしたり強要したりすることはありません。
ものごとが無難になったり、簡単に達成してしまうことが目的ではないからです。さまざまな経験を通して、そこから学びを得て成長する目的をサポートしますから、私たち自身の力で、行動をしたり判断をしたりする機会を奪うようなことはしません。
思考と行動を重ねて、ものごとをなしていく現実の経験を通して、成長して行くという学びの過程を、はじめからおわりまで見守ってくれるのが守護霊という存在です。
たましいの領域で、わかりあっている関係。
私たちと守護霊とは、たましいの領域でつながりをもつ関係です。
たましいの領域で「深くわかり合っている」関係ですから、お互いを誤解することもありませんし、感情的にこじれてしまうこともありません。
殊更にその存在を、意識したりはしなくても、この人生という学びの機会をつかって成長していくという、たましいの目的は同じですから、
私たちは、この人生という機会をいかにして生きていくかという現実的なことに向き合っていけば、そこに守護霊の霊的な導きが、必要に応じて重なっていくこととなるでしょう。
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