前世の経験値が少ない人、多い人を、植物にたとえるなら。

スピリチュアル的にいえば、人生とは、たましいの成長のための経験で、この世とは、成長するための学びの場所です。

人は何度も生まれ変わってたましいの学びを重ねていて、この人生以前の経験を「前世」といいます。前世での経験は、たましいの大元である「グループソウル」という領域に刻まれ、今世での性質にもそれらが反映していきます。

学びは人それぞれ違うものなので、あの人とこの人とは、どちらの学びが上だとか下だとかの優劣は存在しません。経験値が少ない人も多い人も、それぞれの段階にあった学びをしていくことになります。

その段階を、大まかに3つにわけて、それぞれを「植物」にたとえて説明すると以下のようになります。

種から発芽する段階。

前世の経験値が少ない人は、植物でいうなら「種から発芽していく」段階になります。種が発芽するためには、水があることなど、少しの外の刺激が必要で、あとは種の中に内包されているものが外へとあらわれていきますよね。

前世が少ない人によく見られる性質は、まさに、種が発芽するときのようなシンプルで純粋な力強さです。自分の中に備わっているものを、そのまま外へ体現していくことができます。

そうしたふるまいに躊躇はなく、自分以外の外側のようすを(いい意味もそうでない意味も含めて)あまり考慮しません。「自分の中に備わっているものを、迷いなくあらわしていく」生き方をするでしょう。

そうした生き方は、周囲と合わせるという姿勢ではないため、軋轢を生み衝突することもあるけれど、迷いのなさが、ある種の健全さのようにうつり、憧れをもたれることもあります。

成長途中の、若い木。

前世の経験値がそれなりに重ねられている人は、植物でいうなら「成長が著しい若い木」です。

植物が成長していくには、光合成をするための太陽や、土から吸収する養分や、水などの、外の要素がたくさん必要になります。

この段階にある人は、自分以外の外の要素と関わることが成長に繋がります。ものごとを経験していくこと、他人との関わりなど「外からとりいれるものが、自分を大きくしていくことに繋がる」のです。

成長していく度合いが大きい時期なので、植物の背がのびるように、ものごとをみる視座も比例して高くなっていく時期なので、

他人のことや、自分を含めた全体像を把握することができるようになり、協力や調和という「自力と他力との融合が学びに加わっていく」ようになります。

しっかりした大きな木。

前世の経験値がとても多い人は、植物でいうなら、しっかりとした大きな木です。

自分以外の外側の要素は、成長のためにも生命の維持のためにも必要としますが、成長著しい若い木ほどには、それらを必要としなくなります。自分の中に「できあがっているもの」があるからです。

木の高さの位置から、遠くまで見渡すことができるように、ものごとの全体像を俯瞰してみることができます。

大きな木が、ときに涼しい木陰をつくって日差しをさえぎったり、鳥がとまる場所を提供したり、実りを与えたりするように、この段階にある人は、自分が吸収して得ることよりも「自分が与える側となる」役割が多くなっていくでしょう。

違いがあるからお互いに学ぶことができる。

種の段階にある人、のびざかりの若い木の段階にある人、大きなしっかりとした木の段階にある人、いろいろな段階の人が集まっていることで、この世という学びの場所が成立しています。

種ばかりでは、種に必要なものを与える人がいませんし、大きな木ばかりでも、実りをつかってくれる相手がいません。

いろいろな人がいることで、学びの場所としての調和がつくられています。

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