器のサイズに見合った学びをする、ということ。

誰もがそれぞれの、器のサイズに見合った学びをするようになっています。

器以上の負担がやってくることもなければ、器以上を抱えることもできません。

平均よりもずっと「大きい器をもっている人」は、もっと頑張らなければならない気がして、他人の学びまでをも、自分が抱えようとしてしまうことがあります。しかし、他人のそれは、他人の領域のこととして、相手に任せるという割り切りも必要です。

大きい器の人は、そのサイズに見合った、俯瞰した視点があり、深い洞察力があります。ものごとを深く見つめ、対応策を選び、行動に移すことができる自主性を高くそなえています。

そうした感性ゆえに、たくさんのことに気づいてしまいます。気づけば、心配になりますよね。ならば、心配の種を排除しようと動こうとします。

そうして常に、「やらなければならないこと」を見つけてしまい、自分がそれを何とかしなければと思ってしまうため、いつも気持ちが休まらず、いつも忙しくなってしまいます。

他の人はそこまで気づいていないようだ、自分はそれをわかっている、だから自分が先回ってあれもこれもやらなければならない、気づいたからにはそうしなければならない、自分がやらないと誰かにしわ寄せがいって不幸になっては困る、と、「自分がやらない場合の、他者への影響」を考えてしまうのは、

器が大きいゆえに、気づく範囲、わかる範囲が広いからなのです。

ときに、他人の領域のことや、自分から決して近くない距離のことまでも、気づいてしまい、わかってしまうための、気持ちの動きです。

しかし、「気づくこと」と、「実際にできること」は同じ比率になりません。

一日という決まった時間があり、決まった体力や気力という肉体と連動する要素があるのが、この世という場所のしくみです。

他人のためにも、いろいろしてあげたくなる、その気持ちは尊いけれども、それぞれの学びの領域があり、他人の学びは、その人自身のものであるという、区分けを理解することは大事です。

また、自分の大きい器を、自分が満たしていないときに、必要以上に他人のことが気になって、心配になることがあります。

大きい器がある人は、その器を「自分が」満たすことも学びです。他人のことを、自分の器にもちこんで安心しようとしているために、気になってしまう場合もありますから、自分が満たされているかという観点からも、内観してみましょう。

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