自分を信頼するという感覚を、つかむための思考。

自分を信頼ことが、簡単にできる人と、なかなかできない人がいます。

簡単にできる人にとっては、とても自然で普通の、気の持ちようの延長のようなにスムーズですが、できない人にとっては、「どのようにすれば、それができるのか」、という思考を進めるきっかけも思い浮かばないという難題です。

自分を信頼できるようになるには、さまざまなアプローチの方法がありますが、まず、そのうちの一つとして、

「自分自身を含めて、自分の一番の理解者は、誰か」という分析をしてみることがよいでしょう。

雲の中で座る妖精

自分への信頼が持てない人は、この問いに即答できないかもしれません。自分、とは言い切れず、かといって誰といわれても難しい、そもそも、そんなことを考えてもみたことがない、という感じではないかと思います。

自分を信頼することができる人は、上記の問いに、わりとあっさりと、「それは自分自身だと思う」という結論を出せると思います。

または、自分以外の「それは、家族の○○です」という答えになることもあるでしょう。

どちらにしても、即答できるということは、自分が導き出した「答え」を「信頼しているから」です。この差に、ひとつのポイントがあると考えます。

即答ができないということは、そういう考え方をしたことがないか、やはり、自分を信頼するという感覚が薄いのでしょうね。

この機会に、ぜひ考えてみましょう。自分の、一番の理解者は誰なのか。自分なのか、他人なのか。心の底からそうだとまでは思えなくても、理屈で考えて出す答えでも十分です。

そうすると、「理屈でいえば、やはり自分ということになるのかも」くらいの結論には至ると思います。心の底からの実感ではないとしても。

その思考に、どのくらいの時間を要するかは、人それぞれでしょうが、ちゃんと取り組むならば、少なくとも数分はかかります。

そこで、改めて考えてみてほしいのです。仮に、その思考の答えが、やはり自分の理解者は自分だとはいえない、という結論になったとしても、「今、こうして、時間を確保して、一生懸命自分について考えた」という、事実について、です。

たとえば、友達や知人などが、自分について、「あの人の、一番の理解者とは、誰なのだろう?」という思考に、時間を費やしてくれる機会が、どのくらいあるでしょうか。それは、逆に、「自分が、他人のために、そこまで考える機会がどのくらいあるか」を踏まえて、当てはめてみればわかりますよね。

そのような深いところの分析とは、自分にしかできない、自分しか、しようとしないもの、だと思うのです。

ごく一部の、それを職業にしている人などを除けば、自分以外の他人のことに、そのような思考をする機会も、そのための時間も、持つことはほとんどないと思います。

自分の理解者は誰かという思考の結果、仮に、自分のことを現時点では自分の理解者だとは言えない、という結論になった場合でも、それでも、一連の分析作業は「自分を理解しようと、寄り添っている」作業です。

こうした積み重ねをしていくと、少しずつ、自分という存在が、以前よりも近く感じられて、自分が自分を信頼するという感覚が、こういうことがそうだなと、わかっていくようになるのではないでしょうか。

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